大野寺の歴史-修学旅行・観光の簡単解説
大野寺の歴史を時代別年表で紹介。
大野寺の歴史を簡単にまとめています。大野寺は寺伝によると681年(白鳳9年)に役行者が開山したと言われています。824年(天長元年)に弘法大師・空海が室生寺を中興した際、堂を建立したと言われています。なお大野寺歴史では時代別に歴史年表にまとめ、重要人物も紹介したりしています。
【前史(宇陀川)】
★大野寺近くを流れる宇陀川(うだがわ)は竜門山地(りゅうもんさんち)の主峰である標高約904メートルの竜門岳(りゅうもんだけ)北方を源とし、口宇陀盆地(くちうだぼんち)を北東に流れながら支流を合わせ、名張川(なばりがわ)に注ぐ延長約28キロの淀川(よどがわ)水系の一級河川です。宇陀川は中山川・笠間川・芳野川・内牧川・荷阪川・深谷川・室生川・阿清水川・滝川などの支流と合流します。
【大野寺創建(起源・由来)】
★大野寺は寺伝によると飛鳥時代後期の681年(白鳳9年)に修験道(しゅげんどう)の祖である役行者(えんのぎょうじゃ)・役小角(えんのおづの)が開山したと言われています。大野寺は役行者霊蹟札所になっています。
【奈良時代(710年頃~794年頃)の歴史・出来事】
★宝亀年間(770年~781年)に法相宗(ほっそしゅう)の大本山・興福寺(こうふくじ)の僧・賢憬(けんけい・賢璟)が第50代・桓武天皇(かんむてんのう)の発願により、室生寺(むろうじ)を国家鎮護の寺として創建したと言われています。大野寺は近鉄室生口大野駅方面から室生寺に向かう際、室生寺の入口に位置し、大野寺は室生寺の西の大門とも言われています。なお室生寺は興福寺と関係が深く、大野寺も興福寺にゆかりがある僧などが伽藍を整備したとも言われています。
【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】
★824年(天長元年)に真言宗(しんごんしゅう)の宗祖である弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)が室生寺(むろうじ)を中興した際、堂を建立して本尊・弥勒菩薩(みろくぼさつ)を安置し、慈尊院(じそんいん)弥勒寺(みろくじ)と称したとも言われています。その後慈尊院弥勒寺は地名から大野寺と名付けられたとも言われています。
【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】
★「石仏縁起(せきぶつえんぎ)・1659年(万治2年)」や「興福寺別当次第(べっとしだい)」によると1207年(承元元年)から興福寺の僧・雅縁(がえん)の発願により、宇陀川(うだがわ)の対岸にある大岩壁に弥勒磨崖仏(みろくまがいぶつ・大野寺石仏)の制作が開始されました。弥勒磨崖仏は高さ約30メートルの大岩壁に高さ約13.8メートルに渡って光背形が彫られ、その中に像高約11.5メートルの弥勒仏立像が線刻されています。弥勒磨崖仏は南宋(中国)から来日した石工・伊行末(いぎょうまつ・いのゆきすえ)一派が制作したとも言われています。ちなみに伊行末と息子・伊行吉(いぎょうきち)が制作したとも言われる十三重石塔が般若寺(はんにゃじ)に残されています。ちなみに弥勒磨崖仏は後鳥羽上皇(第82代・後鳥羽天皇(とばてんのう))の勅願により、笠置寺(かさぎでら)の弥勒磨崖仏を模して制作されたとも言われています。笠置寺の弥勒磨崖仏は「今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)」によると664年(天智天皇3年)に制作されたとも言われています。第38代・天智天皇(てんじてんのう)の子で、第39代・弘文天皇(こうぶんてんのう)となる大友皇子(おおとものおうじ)が日馬に乗って鹿狩りをしていた際、笠置山中の断崖絶壁で立ち往生し、鹿は断崖絶壁を越えて逃げ去り、馬は身動きができなくなりました。大友皇子は山の神に祈り、助かれば、断崖絶壁に弥勒仏を刻もうと誓願して助かりました。その後誓願通りに弥勒仏を刻もうとしたが、あまりの断崖絶壁で上手くいかず、そこに天人が現れて弥勒像を刻んだと言われています。
★1209年(承元3年)に後鳥羽上皇が臨席し、弥勒磨崖仏の開眼供養が行われました。
★鎌倉時代に地蔵菩薩立像(重要文化財)が造仏されました。地蔵菩薩立像は無実の娘を火あぶりの刑から救ったという伝説があり、「身代わり地蔵」とも言われているそうです。地蔵菩薩立像は後頭部から背面全体が炭化しています。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】
★江戸時代中期頃にコイトシダレザクラ(小糸枝垂桜)が植えられたと言われています。コイトシダレザクラは室生寺(むろうじ)近くの西光寺(さいこうじ)に植えられている樹齢約300年の城山之桜(じょうのやまさくら)が親木とも言われています。
【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】
★1900年(明治33年)に火災によって伽藍が全焼しました。ただ本尊(秘仏)・弥勒菩薩立像は持ち出され、焼失を免れました。その後本堂・地蔵堂などが再建されました。
★1934年(昭和9年)11月10日に弥勒磨崖仏(大野寺石仏)が史跡に指定されました。
★1993年(平成5年)から1999年(平成11年)に弥勒磨崖仏(大野寺石仏)の修復が行われ、以前よりも線刻がよく見えるようになりました。弥勒磨崖仏は地下水が岩盤から滲みだして剥落の危険があったことから地下水の流路を変え、岩盤の岩表面から苔類が除去されました。
【役行者・役小角:大野寺開山】
役行者・役小角は634年(舒明天皇6年)に父・大角と母・白専女の子として大和国葛城上郡茅原で生まれたとも言われました。その後元興寺で孔雀明王の呪法を学び、葛城山・熊野・大峰などで山岳修行を続け、吉野・金峯山で金剛蔵王大権現を感得し、日本古来の山岳信仰・山修行・密教(仏教)などを融合させた修験道の基礎を築きました。しかし弟子・韓国連広足が役行者の能力を妬み、妖術を使って人を惑わしていると朝廷に讒訴し、699年(文武3年)に伊豆島に流罪になりました。701年(大宝元年)1月に大赦されて故郷に戻り、6月7日に大阪箕面・天上ヶ岳で亡くなったとも言われています。
【大野寺 備考】
*参考・・・大野寺(アクセス・見どころ・・・)wikipedia