添御縣坐神社本殿・添御縣坐神社見どころ(修学旅行・観光)

添御縣坐神社本殿

●添御縣坐神社本殿は1907年(明治40年)8月28日に国の重要文化財に指定されました。
●添御縣坐神社本殿は南北朝時代の1383年(弘和3年・永徳3年)に現在の本殿が建立され、その後戦国時代(室町時代後期)の1513年(永正10年)9月28日・江戸時代前期の1665年(寛文5年)2月8日・江戸時代後期の1820年(文政3年)9月吉日・1966年(昭和41年)12月31日に修理されました。本殿は武乳速之命(たけちはやのみこと)・建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)・櫛稲田姫之命(くしいなだひめのみこと)を祀っています。
武乳速之命は富雄・三碓地域の一帯を開拓して治めていた首長とされています。武乳速之命は日本最古の歴史書「古事記(こじき)・712年(和銅5年)編纂」に登場する登美能那賀須泥毘古(とみのながすねひこ)とされています。登美能那賀須泥毘古は初代・神武天皇(じんむてんのう)による神武東征(とうせい)の際、敗れて殺害されたとされています。武乳速之命は長髄彦(ながすねひこ)・登美毘古(とみびこ)などとも言われています。
建速須佐之男命は日本最古の正史「日本書紀(にほんしょき)・720年(養老4年)完成」によると伊奘諾尊(いざなぎのみこと)と伊奘冉尊(いざなみのみこと)の子で、天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟とされています。建速須佐之男命は乱暴で、恐れた天照大神が天の岩戸に隠れ、世の中は暗闇になり、困った八百万神(やおよろずのかみ)が天安河の河原に集まって大宴会を行って岩戸を開かせたと言われています。また建速須佐之男命は出雲で八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し、救った櫛稲田姫之命と結婚し、出雲の祖神になったとされています。なお建速須佐之男命は速須佐之男命・須佐之男命・素戔男尊・素戔嗚尊等・須佐乃袁尊などとも言われています。
櫛稲田姫之命は大山津見神(おおやまつみのかみ)の子・足名椎命(あしなづちのみこと)と手名椎命(てなづちのみこと)の8人の娘の一人です。櫛稲田姫之命は建速須佐之男命が八岐大蛇を退治した際、素盞鳴命と結婚したと言われています。なお櫛稲田姫之命は奇稲田姫・稲田媛・眞髪觸奇稲田媛・久志伊奈太美等与麻奴良比売命などとも言われています。
●添御縣坐神社本殿は五間社(ごけんしゃ)流造(ながれづくり)の檜皮葺(ひわだぶき)です。正面3個所に千鳥破風(ちどりはふ)付きです。
流造は神社建築の一形式です。流造は正面入口にあたる屋根の一方(前流れ)が長く延びた形式です。流造は伊勢神宮(いせじんぐう)に代表される神明造(しんめいづくり)から発展し、奈良時代末期から平安時代に成立し、全国に広がりました。流造では上賀茂神社(かみがもじんじゃ)・下鴨神社(しもがもじんじゃ)がよく知られています。流造では正面(桁行)の柱間が1間(柱2本)の場合には一間社流造、3間(柱4本)の場合には三間社流造、5間(柱6本)の場合には五間社流造になります。
檜皮葺は屋根葺手法の一形式です。檜皮葺では檜(ひのき)の樹皮を用いて屋根を葺きます。檜皮葺は日本以外では見られない日本古来の手法です。檜皮葺は飛鳥時代の668年(天智天皇7年)に滋賀県大津市の廃寺・崇福寺(すうふくじ)の諸堂が檜皮で葺かれた記録が最古の記録です。
千鳥破風は屋根の斜面に設けた小さな三角形の破風です。狐格子(きつねごうし)をはめ込み、装飾や通気用に用いられます。なお破風は切妻造(きりづまづくり)・入母屋造(いりもやづくり)の屋根の妻の三角形の部分です。
添御縣坐神社

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