当麻寺講堂・当麻寺見どころ

当麻寺講堂

●当麻寺講堂は1899年(明治32年)4月5日に国の重要文化財に指定されました。
●当麻寺講堂は平安時代末期の1180年(治承4年)の平重衡(たいらのしげひら)による南都焼き討ちにで焼失し、鎌倉時代前期の1303年(乾元2年)に再建されました。当麻寺講堂には床下に焼土層があり、講堂から金堂に類焼したと言われています。
一般的に講堂は僧侶が経典の講義や説教などをする堂塔です。講堂は通常、中国・唐時代の伽藍配置に倣って、金堂(本堂)の背後に建立されています。ちなみに講堂は禅宗寺院では法堂(はっとう)とも言われています。講堂は奈良時代に建立が始まり、鎌倉時代以後にはほとんど建立されなくなったが、禅宗寺院で仏殿の背後に法堂として建立されました。講堂は奈良時代に建立された唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂や平安時代に再建された法隆寺(ほうりゅうじ)の大講堂がよく知られています。講堂で講義する際には本尊を安置し、講師が本尊に向かい、礼盤(らいばん)に座って講義を行いました。なお講堂は多くの僧侶が参集することから金堂よりも大きく建立されるが、装飾性は少い堂塔です。
南都焼討は平安時代末期の1181年(治承4年)1月15日に平清盛(たいらのきよもり)の命により、五男で、総大将・平重衡(たいらのしげひら)らの平氏軍が反平氏勢力である東大寺・興福寺など奈良(南都)の寺院を焼討にした事件です。民家への放火によって東大寺・興福寺が全焼し、東大寺の大仏の首も焼け落ちました。なお平重衡は1184年(元暦元年)に摂津国・一ノ谷の戦い(いちのたにのたたかい)で敗れて捕らえられ、鎌倉に送られたが、奈良(南都)の寺院の要求により、1185年(文治元年)7月21日に木津川畔で斬首され、奈良坂にある般若寺(はんにゃじ)門前で梟首されました。平重衡は享年29歳でした。
●当麻寺講堂には本尊である阿弥陀如来坐像(重要文化財)と別の阿弥陀如来坐像(重要文化財)・妙幢菩薩立像(重要文化財)・地蔵菩薩立像(重要文化財)、そして不動明王立像・毘沙門天立像・千手観音立像・不動明王立像などが安置されています。
阿弥陀如来は大乗仏教の如来のひとつで、西方の極楽浄土(ごくらくじょうど)の教主とされています。阿弥陀如来は弥陀仏(阿弥陀佛)・無量光仏(むりょうこうぶつ)・無量寿仏(むりょうじゅぶつ)とも言われています。阿弥陀如来は生あるものを全てを救う如来とされています。阿弥陀如来は紀元100年頃に編纂された大乗仏教の経典「無量寿経(むりょうじゅきょう)」によると世自在王仏(せじざいおうぶつ)のもとで出家して修行していた時、法蔵比丘(ほうぞうびく)という菩薩(法蔵菩薩( ほうぞうぼさつ))であったが、48の誓願(四十八願 (しじゅうはちがん))を立てて修行して仏になり、仏国土である極楽浄土(ごくらくじょうど)を設立して現在もそこで説法しているとされています。
●当麻寺講堂は桁行七間・梁間四間で、寄棟造(よせむねづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。当麻寺講堂はかつて屋根が金堂と同様に厚板を葺いた木瓦葺でした。
寄棟造は四方向に傾斜する屋根面を持つ屋根の形式です。寄棟造は大棟(おおむね)の両端から四方に隅棟(すみむね)が降り、2つの台形と2つの二等辺三角形で構成されます。いずれも奈良県の東大寺の大仏殿や正倉院(しょうそういん)・唐招提寺(とうしょうだいじ)の金堂が代表例です。
本瓦葺は平瓦と丸瓦を交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。
当麻寺見どころ

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