当麻寺中之坊書院・当麻寺見どころ(修学旅行)

当麻寺中之坊書院

●当麻寺中之坊書院は1935年(昭和10年)5月13日に国の重要文化財に指定されました。
●当麻寺中之坊書院は江戸時代前期(1615~1660年)に建立されました。1988年(昭和63年)から1989年(平成元年)に屋根の葺き替えが行われました。2017年(平成29年)から改修工事が行われています。
一般的に書院は禅宗寺院で、住持(じゅうじ(住持職・住職))の私室のことです。住持(住持職・住職)は寺院を管掌する最高位の僧侶のことです。室町時代以降に武家・公家の邸の居間兼書斎も書院と言うようになりました。なお書院は中国で書庫・書斎を意味し、日本で鎌倉時代に書見(しょけん)したり、学を講ずる場所を意味するようになり、その後客を応接する対面所を言うようになった。
●当麻寺中之坊書院は御幸の間・鷺の間・鶴の間・侍者の間・茶室などがあります。御幸の間は第111代・後西天皇が行幸したと伝えられ、玉座が置かれています。茶室には西側の4畳半の茶室・東側の6畳の茶室があり、4畳半の茶室に直径約1.8メートルの円窓があり、丸窓席と言われています。また丸窓席からは東塔・西塔が眺めることができ、双塔庵とも言われています。襖絵に鷺図・舟釣図など14面、張壁に鷹図・楼閣図など10作があります。
第111代・後西天皇は江戸時代前期の1638年(寛永14年)1月1日に第108代・後水尾天皇と典侍・藤原隆子(くしげたかこ・逢春門院(ほうしゅんもんいん))の第8皇子として生まれました。1647年(正保4年)に高松宮好仁親王(たかまつのみやよしひとしんのう)の遺跡を継いで桃園宮・花町宮と称し、1648年(慶安元年)に親王宣下を受けました。1654年(承応3年)10月30日に第110代・後光明天皇が崩御し、養子で、実弟・識仁親王(第112代・霊元天皇)が生後間もなかったことから1655年(承応3年)1月5日に即位し、1663年(寛文3年)3月5日に10歳になった識仁親王に譲位しました。第111代・後西天皇は学問に打ち込み、和歌に優れ、歌集「水日集」・「源氏聞書」・「百人一首聞書」などを記しました。またまた茶道・華道・香道にも精通していました。
●当麻寺中之坊書院は桁行約11.6メートル・梁間約11メートルで、東面切妻造(きりづまづくり)・西面入母屋造(いりもやづくり)のこけら葺(こけらぶき)です。茶室は檜皮葺(ひわだぶき)です。
切妻造は屋根の最頂部の棟(むね)から両側に葺き下ろし、その両端を棟と直角に切った屋根の形式です。切妻造は本を開いて伏せたような形で、平行な面を平(ひら)、棟と直角な面を妻(つま)と言います。切妻造は古くは真屋(まや)とも言われ、伊勢神宮(いせじんぐう)・出雲大社(いづもたいしゃ)などの社殿に採用されています。ちなみに四方向に傾斜する屋根面を持つ寄棟造(よせむねづくり)よりも格式が上とも言われています。なお切妻造は世界各地で見られる屋根の形式です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
こけら葺は木材の薄板を使って屋根を葺く方法です。こけら葺は板葺(いたぶき)の一種です。板葺では板厚が2~3ミリの場合にこけら葺、板厚が4~7ミリの場合に木賊葺(とくさぶき)、板厚が1~3センチの場合に栩葺(とちぶき)と言われています。板葺にはヒノキ・サワラ・スギ・エノキ・トクサ・クヌギなどが用いられます。板葺は古墳時代から屋根に用いられるようになったとも言われ、茅葺(かやぶき)に次いで古いとも言われています。飛鳥時代(593年~709年)に建立された法隆寺(ほうりゅうじ)の五重塔(国宝)の屋根にも用いられています。
檜皮葺は屋根葺手法の一形式です。檜皮葺では檜(ひのき)の樹皮を用いて屋根を葺きます。檜皮葺は日本以外では見られない日本古来の手法です。檜皮葺は飛鳥時代の668年(天智天皇7年)に滋賀県大津市の廃寺・崇福寺(すうふくじ)の諸堂が檜皮で葺かれた記録が最古の記録です。
当麻寺見どころ

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