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高鴨神社本殿・高鴨神社見どころ(修学旅行・観光)
高鴨神社本殿
●高鴨神社本殿は1902年(明治35年)7月31日に国の重要文化財に指定されました。
●高鴨神社本殿は戦国時代(室町時代後期)の1543年(天文12年)に建立されました。本殿は阿遅志貴高日子根命(あじすきたかひこねのみこと・迦毛之大御神(かものおおみかみ))を祀っています。
阿遅志貴高日子根命は日本最古の歴史書「古事記(こじき)・712年(和銅5年)編纂」に阿遅すき高日子根神・阿遅志貴高日子根神・阿治志貴高日子根神、日本最古の正史「日本書紀(にほんしょき)・720年(養老4年)完成」に味耜高彦根命、「出雲国風土記(いずものくにふどき)・733年(天平5年)完成」に阿遅須枳高日子などと記されています。阿遅志貴高日子根命は「古事記」に大国主神(おおくにぬしのかみ)と宗像三女神(むなかたさんじょしん)に数えられる多紀理毘売命(たきりびめのみこと)の子で、下照比売命(したてるひめ)の兄とされています。妹・下照比売命は葦原中国(あしはらのなかつくに)平定の為に高天原(たかまがはら)から遣わされた天若日子(あめのわかひこ)と結婚しました。天若日子は高天原に戻らなかったことから葦原中国を得ようと企んでいると疑われ、天照大神(あまてらすおおみかみ)と高御産巣日神(たかみむすひのかみ)は雉の鳴女(きじのなきめ)を遣したが、天若日子は高御産巣日神から与えられた弓矢で雉の鳴女を射抜き、その弓矢が高天原まで飛んで行きました。高御産巣日神が邪心があれば当たるようにと誓約して弓矢を戻すと弓矢は天若日子の胸に刺さって亡くなり、下照比売命の泣き声が高天原まで届いたと言われています。その泣き声で天若日子の父・天津国玉神(あまつくにたまのかみ)が葦原中国に降りて喪屋を建て、阿遅志貴高日子根命が訪れたが、顔が似ていたことから天若日子が生きていたと間違われたことに怒り、喪屋を神度剣(かむどのつるぎ)で斬り倒し、蹴り飛ばして去りました。下照比売命は兄・阿遅志貴高日子根命の名を明かす歌を詠み、その歌は夷振(ひなぶり)と言われました。阿遅志貴高日子根命は「シキ」が鋤を表わし、鋤を神格化した農耕神とされています。ちなみに「アジ(アヂ)は可美(ウマシ)を意味するそうです。また阿遅志貴高日子根命は雷神・不動産業の神として信仰されています。
●高鴨神社本殿は三間社(さんげんしゃ)流造(ながれづくり)の檜皮葺(ひわだぶき)です。本殿は正面に軒唐破風(のきからはふ)付きです。
流造は神社建築の一形式です。流造は正面入口にあたる屋根の一方(前流れ)が長く延びた形式です。流造は伊勢神宮(いせじんぐう)に代表される神明造(しんめいづくり)から発展し、奈良時代末期から平安時代に成立し、全国に広がりました。流造では上賀茂神社(かみがもじんじゃ)・下鴨神社(しもがもじんじゃ)がよく知られています。流造では正面(桁行)の柱間が1間(柱2本)の場合には一間社流造、3間(柱4本)の場合には三間社流造、5間(柱6本)の場合には五間社流造になります。
檜皮葺は屋根葺手法の一形式です。檜皮葺では檜(ひのき)の樹皮を用いて屋根を葺きます。檜皮葺は日本以外では見られない日本古来の手法です。檜皮葺は飛鳥時代の668年(天智天皇7年)に滋賀県大津市の廃寺・崇福寺(すうふくじ)の諸堂が檜皮で葺かれた記録が最古の記録です。
唐破風は弓形のように中央部を丸みをつけ、両端が反りかえった曲線状に造形した破風です。軒唐破風は屋根本体の軒先を丸みを帯びた造形した破風です。向唐破風は屋根本体とは別に出窓のように造形した破風です。
高鴨神社