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手向山八幡宮宝庫・手向山八幡宮見どころ(修学旅行・観光)
手向山八幡宮宝庫
●手向山八幡宮宝庫は1953年(昭和28年)11月14日に国の重要文化財に指定されました。
●手向山八幡宮宝庫は奈良時代(710年~793年)に建立されました。宝庫はかつて大仏殿(国宝)の北東で、二月堂の西側(国宝)にあった食堂(じきどう)北東に上司倉として本坊経庫とともに建立されていたが、江戸時代中期の1714年(正徳4年)に現在の場所に移されたと言われています。宝庫にはかつて東大寺に用いられる燈油を保管・貯蔵していたと言われています。東大寺では寺封(じふ・封戸(ふこ))から燈油(とうゆ)が上納され、保管する油倉が立ち並んでいました。南都焼討後に勧進職が油倉の運営に関わるようになり、油倉が独自の機関として成立しました。また東大寺には油料として年貢も収められ、油倉は余剰の年貢を使って田畑の買得などの経済活動が行われていたが、室町時代中期の応仁の乱後に経済活動が停止したとも言われています。その後宝庫にはかつて転害会(てんがいえ)で使用されていた唐鞍(国宝)などの馬具・宝輦(ほうれん)などが収められていました。
転害会(てがいえ)は奈良時代中期の749年(天平勝宝元年)に手向山八幡宮が東大寺の境内に造営され際、大分・宇佐八幡宮から勧請された祭神が転害門を通って祀られたことに由来しています。転害会(八幡宮祭)が平安時代に行われた際、転害門(てがいもん)が御旅所とされ、鳳輦(ほうれん)などが中央に安置され、手向山八幡宮に向かったそうです。
法華堂経庫は平安時代前期(794年~929年)に建立されたとも言われています。法華堂経庫はかつて東向きに建立されていたが、江戸時代中期の1696年(元禄9年)に現在の場所に移されたとも言われています。
●手向山八幡宮宝庫は桁行三間(約6メートル)・梁間二間(約4メートル)の校倉(あぜくら)で、寄棟造(よせむねづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。宝庫は高さ約4メートルで、屋根に鴟尾(しび)が据えられています。
一般的に校倉は三角形・四角形などの断面をした木材を使って、稜(りょう)のひとつを外側に向け、井桁(いげた)に組んで外壁とした倉です。校倉は奈良時代に広く行われていました。校倉には壁面が頑丈で、雨仕舞(あまじまい)がよくて湿気を内部に通しにくく、また乾燥時に壁面から通風があるという特徴があります。なお校倉は甲倉(こうそう)・叉倉(さそう)とも言われています。
寄棟造は四方向に傾斜する屋根面を持つ屋根の形式です。寄棟造は大棟(おおむね)の両端から四方に隅棟(すみむね)が降り、2つの台形と2つの二等辺三角形で構成されます。いずれも奈良県の東大寺の大仏殿や正倉院(しょうそういん)・唐招提寺(とうしょうだいじ)の金堂が代表例です。
本瓦葺は平瓦と丸瓦を交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。
手向山八幡宮(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)