談山神社摩尼輪塔・談山神社見どころ(修学旅行・観光)

談山神社摩尼輪塔

●談山神社摩尼輪塔は1955年(昭和30年)2月2日に国の重要文化財に指定されました。
●談山神社摩尼輪塔は鎌倉時代後期の1303年(乾元2年)に源順(みなもとのしたごう)が談山神社参道脇に建立したと言われています。摩尼輪塔には「乾元二年癸卯五月日立之」の刻銘があります。摩尼輪塔は長い塔身の上部に円盤を造り、密教の胎蔵界・大日如来(だいにちにょらい)の種子アークが刻まれた珍しい形の塔です。
源順は平安時代中期の911年(延喜11年)に第52代・嵯峨天皇(さがてんのう)の子で、大納言(だいなごん)・源定(みなもとのさだむ)の曽孫(ひまご)で、左馬允(さまのじょう)・源挙(みなもとのこぞる)の次男として生まれました。ちなみに父・源挙は930年(延長8年)に急死しました。若い頃から貴族の教育機関である奨学院(しょうがくいん)で勉学に励み、承平年間(931年~938年)に第60代・醍醐天皇(だいごてんのう)の第5皇女・勤子内親王(きんしないしんのう)の求めに応じ、日本最初の分類体辞典「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」を編纂しました。また漢詩文・和歌にも優れ、951年(天暦5年)に和歌所寄人(わかどころよりうど)になり、第62代・村上天皇(むらかみてんのう)の命によって置かれた梨壺の五人(なしつぼのごにん)の一人として、日本最古の和歌集「万葉集(まんようしゅう)」の訓点作業と「後撰和歌集(ごせんわかしゅう」の撰集作業に参加しました。また内裏歌合(うたあわせ)・詩合(しあわせ)にも出詠し、様々な歌合で判者(審判)を務めました。953年(天暦7年)の43歳の時に学生(がくしょう)から文章生(もんじょうのしょう)になり、956年(天暦10年)に勘解由判官(かげゆのじょう)に任じられ、民部丞(みんぶのじょう)・東宮蔵人(とうぐうくろうど)・下総権守(しもうさごんのかみ)などを歴任し、967年(康保4年)に和泉守(いずみのかみ)に任じられ、971年(天禄2年)に和泉守を退任したが、980年(天元3年)に能登守(のとのかみ)に任じられました。源順は三十六歌仙に数えられ、「拾遺和歌集(しゅういわかしゅう)」の27首以降の勅撰和歌集に51首が入集され、源順の和歌を集めた私家集「源順集」もあります。源順は983年(永観元年)に亡くなりました。
大日如来は真言密教の教主で、宇宙の実相を仏格化した根本仏とされています。大日如来は太陽神が起源とされ、宇宙の根元で、諸仏・諸菩薩の本地とされています。なお大日如来は平安時代前期に真言宗の宗祖である弘法大師・空海が密教とともに唐(中国)から日本に伝えました。大日如来は日本の密教において最高仏として位置付けられ、大日信仰が成立しました。大日如来は曼荼羅で主座を占め、智を示す金剛界曼荼羅で智拳印、理を示す胎蔵界曼荼羅で法界定印を結んでいます。なお大日如来は神仏習合では太陽神の性格を持つ天照大神と同一視されることもあります。
談山神社

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