談山神社総社・談山神社見どころ(修学旅行・観光)

談山神社総社(惣杜)

●談山神社総社(惣杜)は拝殿が1977年(昭和52年)1月28日に国の重要文化財に指定されました。
●談山神社総社(惣杜)は拝殿が江戸時代前期の1668年(寛文8年)に建立されました。拝殿は談山神社の拝殿(旧・護国院)を縮少・簡略化して建立されたと言われています。拝殿は内部・外部小壁に狩野永納(かのうえいのう)筆の壁画が残り、「山静」の落款も残されています。
狩野永納は江戸時代前期の1631年(寛永8年)に京狩野2代・狩野山雪(かのうさんせつ)の長子として京都で生まれました。幼少から父・狩野山雪に画法を学び、その後狩野安信(かのうやすのぶ)についたとも言われています。1651年(慶安4年)の21歳の時に父・狩野山雪が亡くなると家督を継いで、「永納」を用いるとともに父と同じ「縫殿助(ぬいどのすけ)」と称すようになりました。また狩野永納は「山静」の別号も用いました。ちなみに「永」は狩野派2代目・狩野元信(かのうもとのぶ)が剃髪後に称した「永仙」、曽祖父の狩野永徳(かのうえいとく)が用い、「山」は父・狩野山雪やその養父・狩野山楽(かのうさんらく)が用いました。1653年(承応2年)6月に禁裏が炎上し、翌1654年(承応3年)から始まった再建工事では狩野探幽(かのうたんゆう)・海北友雪(かいほうゆうせつ)・土佐光起(とさみつおき)らとともに参加し、「禁中御絵画工記」によると「竹図」・「軍鳩図」を描きました。また1663年(寛文3年)の造営でも「松鷹図」も描き、更に1675年(延宝3年)の造営でも狩野安信(かのうやすのぶら)とともに参加しました。1684年(貞享元年)に長子・狩野永敬(かのうえいけい)に家督を譲って剃髪しました。狩野永納は「賀茂競馬図屏風(東京国立博物館蔵)」・「四季花鳥図屏風(ボストン美術館蔵)」などを描くだけでなく、学究肌で古画の研究にも励み、鑑定にも精通し、「本朝画史(ほんちょうがし)」を記しました。なお狩野永納は江戸時代中期の1697年(元禄10年)4月27日に亡くなりました。
●談山神社総社(惣杜)は拝殿が桁行一間・梁間三間で、入母屋造(いりもやづくり)の銅板葺(どうばんぶき)です。拝殿は前後に軒唐破風(のきからはふ)付きです。拝殿は左右突出部が桁行二間・梁間二間で、両端入母屋造・銅板葺です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。
銅板葺は銅を薄くした銅板で屋根を葺く方法です。銅板葺は近世に本格的に始まり、神社・霊廟などに多く用いられています。銅板葺は瓦葺に比べると自重が軽くて耐震性があり、檜皮葺・こけら葺に比べると耐久性があるとい言われています。なお765年(天平宝字9年・天平神護元年)に奈良・西大寺(さいだいじ)で銅板葺が用いられたのが最古の記録とも言われています。
唐破風は弓形のように中央部を丸みをつけ、両端が反りかえった曲線状に造形した破風です。軒唐破風は屋根本体の軒先を丸みを帯びた造形した破風です。向唐破風は屋根本体とは別に出窓のように造形した破風です。
談山神社

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