談山神社東殿・談山神社見どころ(修学旅行・観光)

談山神社東殿(恋神社)

●談山神社東殿(恋神社)は1977年(昭和52年)1月28日に国の重要文化財に指定されました。
●談山神社東殿(恋神社)は江戸時代前期の1619年(元和5年)に本殿として建立され、1668年(寛文8年)に現在の場所に移されました。東殿は鏡王女・定慧和尚・藤原不比等を祀っています。
鏡王女(鏡女王)は額田王(ぬかたのおおきみ)の姉とも、第34代・舒明天皇(じょめいてんのう)の皇女とも、第34代・舒明天皇の皇孫とも言われています。最初に第38代・天智天皇(てんぢてんのう)の妃になったが、その後に藤原鎌足(ふじわらのかまたり・中臣鎌足(なかとみのかまたり))の正妻になり、飛鳥時代後期の669年(天智天皇8年)に夫・藤原鎌足の病気平癒を祈り、興福寺(こうふくじ)の前身となる山階寺(やましなでら)を創建しました。鏡王女は飛鳥時代の歌人で、日本最古の和歌集「万葉集(まんようしゅう)」に「風をだに 恋(こ)ふるは羨(とも)し 風をだに 来(こ)むとし待たば 何か嘆かむ」などの歌が残されています。なお鏡王女は日本最古の正史「日本書紀・720年(養老4年)完成」に683年(天武天皇12年)7月4日に第38代・天智天皇が見舞いに来たことが記されているが、その翌7月5日に亡くなりました。
定恵は643年(皇極天皇2年)に父・藤原鎌足(ふじわらのかまたり・中臣鎌足(なかとみのかまたり))と母・鏡王女(かがみのおおきみ)の長男・中臣真人(なかとみのまひと)として生まれました。653年(白雉4年)5月に遣唐大使・吉士長丹(きしのながに)に従って遣唐使(けんとうし)として唐(中国)に渡り、長安(ちょうあん)懐徳坊にある慧日道場に住し、三蔵法師(さんぞうほうし)とも言われる玄奘(げんじょう)の弟子・神泰法師に師事して学びました。唐(中国)内を遊学して内経外典(ないきょうげてん)に通じたと言われています。665年(天智天皇4年)9月に劉徳高(りゅうとくこう)とともに朝鮮半島の百済(くだら)を経て帰国したが、同年12月23日に23歳で大和国大原(奈良県高市郡明日香村小原)で亡くなったと言われています。百済人によって毒殺されたとも言われています。定恵には第38代・天智天皇(てんぢてんのう)のご落胤とも言われる伝承や談山神社の前身・妙楽寺(みょうらくじ)を創建し、父・藤原鎌足の遺骸を摂津国安威山(大阪府)から改葬して、妙楽寺に十三重塔を建立したという伝承が残されています。
藤原不比等は659年(斉明天皇5年)に藤原鎌足(ふじわらのかまたり・中臣鎌足(なかとみのかまたり))と車持与志古娘(くるまもちのよしこのいらつめ)の次男として生まれました。ただ669年(天智8年)の11歳で父・藤原鎌足が亡くなり、680年(天武9年)に蘇我連子(そがのむらじこ)の娘・蘇我娼子(そがのしょうし)と結婚したと言われています。藤原不比等は律令制度の確立に努め、大宝律令(たいほうりつりょう)・養老律令(ようろうりつりょう)の制定に加わり、平城京遷都を推進し、708年(和銅元年)に正二位(しょうにい)・右大臣(うだいじん)になりました。長女・宮子(みやこ)が第42代・文武天皇(もんむてんのう)の夫人、三女・光明子(こうみょうし)が第45代・聖武天皇(しょうむてんのう)の皇后になり、長男・藤原武智麻呂(むちまろ)が南家祖、次男・藤原房前(ふささき)が北家祖、三男・藤原宇合 (うまかい) が式家祖、麻呂 (まろ) が京家祖になり、藤原氏繁栄の基礎を築きました。なお飛鳥時代の698年(文武天皇2年)に藤原不比等の子孫のみが藤原姓を名乗り、律令制において司法・行政・立法を司る最高国家機関である太政官(だいじょうかん)の官職に就くことができるとされました。
●談山神社東殿(恋神社)は三間社(さんげんしゃ)隅木入(すみぎいり)春日造(かすがづくり)の檜皮葺(ひわだぶき)です。
春日造は切妻造(きりづまづくり)の妻入(つまいり)で、正面に庇(ひさし)である階隠(はしかくし)を設け、屋根上(棟)に置き千木(ちぎ)・鰹木(かつおぎ)が付けられています。春日造は仏教建築の影響を受け、奈良時代中期に現れたとも言われています。
檜皮葺は屋根葺手法の一形式です。檜皮葺では檜(ひのき)の樹皮を用いて屋根を葺きます。檜皮葺は日本以外では見られない日本古来の手法です。檜皮葺は飛鳥時代の668年(天智天皇7年)に滋賀県大津市の廃寺・崇福寺(すうふくじ)の諸堂が檜皮で葺かれた記録が最古の記録です。
談山神社

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