龍田大社歴史-修学旅行・観光ポイント
龍田大社の時代別年表と重要人物
龍田大社歴史を簡単にマトメてポイント解説します。龍田大社は「龍田風神祭祝詞」によると第10代・崇神天皇に夢告があり、天御柱命(志那都比古神)・国御柱命(志那都比売神)を祀ったのが起源とも言われています。なお修学旅行・観光の為に簡単にマトメています。
【前史(「龍田」)】
★「龍田」の地名は古く、初代・神武天皇(じんむてんのう)即位の頃、紀元前660年頃まで遡ると言われています。龍田地区を守護する氏神として、龍田比古命(たつたひこのみこと)・龍田比売命(たつたひめのみこと)が祀られたとも言われています。
★第10代・崇神天皇(すじんてんのう)の時代(紀元前97年~紀元前30年)に数年に渡って、凶作が続き疫病が流行しました。
【龍田大社創建(起源・由来)】
★龍田大社は「龍田風神祭祝詞(たつたふうじんまつりのりと)」によると第10代・崇神天皇に「吾が宮を朝日の日向かう処、夕日の日隠る処の龍田の立野の小野に定めまつりて・・・」という夢告があり、天御柱命(あめのみはしらのみこと・志那都比古神(しなつひこのかみ))・国御柱命(くにのみはしらのみこと・志那都比売神(しなつひめのかみ))を祀ったのが起源とも言われています。崇神天皇の時代、数年に渡って凶作や疫病が流行し、夢告通りに龍田大社を建立すると豊作になり、疫病は退散したとも言われています。なお龍田大社は大阪府柏原市域にあたる龍田山伝承地などとして信仰され、古代の人々が龍田大社に旅の安全を祈願しました。その為、龍田古道(龍田越え)などが残されています。
【奈良時代(710年頃~794年頃)の出来事】
★675年(天武天皇4年)に日本最古の正史「日本書紀(にのんしょき)・720年(養老4年)完成」によると勅使が派遣され、風神(ふうじん)を龍田立野に祀り、大忌神(おおいみのかみ)を広瀬河曲(広瀬大社(ひろせたいしゃ))に祀ったと記されています。この「日本書紀」の記述が龍田大社の文献上の初見で、第40代・天武天皇(てんむてんのう)の時代(673年~686年)に19回、第41代・持統天皇(じとうてんのう)の時代(686年~697年)に16回も勅使が派遣されました。
★広瀬大社は社伝によると紀元前89年(崇神天皇9年)に広瀬の河合の里長・広瀬臣藤時に信託があり、沼地である水足池(みずたるのいけ)が一夜にして陸地に変わって橘が数千株生え、そのことが崇神天皇に伝わり、大御膳神として社殿を建立したのが起源とも言われています。広瀬大社は広瀬の水神とも言われ、龍田の風神(龍田大社)と並び称されました。
【平安時代(794年頃~1185年頃)の出来事】
★平安時代中期に「延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)・927年(延長5年)編纂」によると「竜田坐天御柱国御柱神社二座 並名神大 月次新嘗 (大和国平群郡に龍田坐天御柱国御柱神社二座及び龍田比古龍田比女神社二座)」と記され、龍田大社が式内社(しきないしゃ)に列されました。また「延喜式神名帳」に四時祭に数えられる「風神祭」が記され、平安時代中期頃に4月4日・7月4日に国家的に祭祀が行われていました。ちなみに明治維新後の新暦移行により、7月4日の祭礼が風鎮大祭(ふうちんたいさい)、4月4日の祭礼が例大祭(れいたいさい)と言われるようになりました。
★平安時代に龍田大社が祀られているこの地は六歌仙・在原業平(ありわらのなりひら)に「ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは」、僧侶で、歌人・能因法師に「嵐ふく 三室の山の もみじ葉は たつ田の川の 錦なりけり」と詠みました。
【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の出来事】
★鎌倉時代に兵庫県西宮市に祀られている西宮えびす神社から分霊が勧請(かんじょう)され、龍田恵美須神社(たつたえびすじんじゃ)が創建されました。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の出来事】
★江戸時代に龍田恵美須神社が荒廃しました。
★江戸時代に神域に白蛇が現れたが、その後一夜にして姿が見えなくなったと言われています。その後明治時代に白龍神社(はくりゅうじんじゃ)が祀られました。
【明治時代以降(1868年頃~)の出来事】
★1871年(明治4年)に奈良県生駒郡斑鳩町龍田に祀られている龍田神社(たつたじんじゃ)が龍田大社の摂社になりました。ただ1922年(大正11年)3月に龍田神社が龍田大社から独立し、県社に列せられました。ちなみに龍田神社は第10代・崇神天皇の時代に祀られたとも言われています。その後法隆寺(ほうりゅうじ・斑鳩寺(いかるがでら))の鎮守になったと言われています。用明天皇の皇子・聖徳太子(しょうとくたいし・厩戸皇子(うまやどのおうじ))が法隆寺を創建する場所を求めていた際、老人に化した龍田大明神が現れ、「斑鳩の郷は仏法が末永興隆する地として伽藍建立に適している」と告げられ、聖徳太子は法隆寺の守護を願って、龍田大明神を祀ったと言われています。龍田神社は当初、龍田比古命(たつたひこのみこと)・龍田比女命(たつたひめのみこと)を祀り、龍田比古龍田比女神社とも言われていたそうです。なお龍田大社は「本宮」、龍田神社は「新宮」と言われていました。
★1908年(明治41年)春に北葛城郡広陵町にあるにごり池に白龍が出現し、白龍神社が祀られました。
★明治時代に龍田大社は官幣大社に列せられました。
★明治時代に下照神社(しもてるじんじゃ)が創建されました。
★1987年(昭和62年)に龍田恵美須神社が復興されました。
【第10代・崇神天皇】
第10代・崇神天皇は紀元前149年(開化天皇9年)または紀元前148年(開化天皇10年)に第10代・開化天皇と伊香色謎命の間に生れたと言われています。「古事記」・「日本書紀」によると疫病が流行した為に大物主神を三輪に祭祀したり、北陸・東海・西海・丹波の四道に将軍を派遣して大和朝廷の勢力を広めたりしたと言われています。また男子に弓弭調、女子に手末調を課したりして財政制度の整備しました。崇神天皇は原始的な小国家を統一して大和政権を確立し、国内統治を進めたと言われています。なお第10代・崇神天皇は紀元前30年(崇神天皇68年)に崩御しました。
【龍田大社 備考】
*参考・・・龍田大社(歴史・見どころ・・・)ホームページ