東大寺大仏・東大寺見どころ(修学旅行・観光)

東大寺大仏

●東大寺大仏は1958年(昭和33年)2月8日に国宝に指定されました。
●東大寺大仏は一般的に奈良の大仏と言われているが、毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)のことです。毘盧遮那仏は略して盧遮那仏(るしゃなぶつ)・遮那仏(しゃなぶつ)とも言われています。
盧遮那仏(毘盧遮那仏)は大乗仏教(だいじょうぶっきょう)における仏(ほとけ)のひとつです。盧遮那仏は華厳経(けごんぎょう)の中心的な存在として扱われる尊格です。盧遮那仏は密教(みっきょう)で教主である大日如来(だいにちにょらい)と同一視されています。盧遮那仏はお釈迦さま(ゴータマ・シッダールタ)を超えた宇宙仏(法身仏)で、宇宙の真理を全ての人に照らし、悟りに導く仏とされています。仏は本来、仏教における最高の存在で、悟りを開いた者である仏陀(ぶつだ・如来(にょらい))を意味していました。(狭義の仏)その後、仏陀(如来)に準ずる存在で、悟りを開こうと修行している菩薩(ぼいさつ)・密教で如来の変化身ともされる明王(みょうおう)・天界に住む天部(てんぶ)の護法善神(ごほうぜんじん)などが含まれるようになりました。(広義の仏)なお華厳経は広大な真実の世界を包含する仏が一切の衆生(しゅじょう)・万物とともにあり、一切の衆生・万物も仏とともにあるという一切即一(いっさいそくいち)・一即一切(いっそくいっさい)の世界観を説いています。また全てのものは無縁の関係性(縁)によって成り立っているという法界縁起(ほっかいえんぎ)も説いています。
●東大寺大仏は平安時代初期に編纂された勅撰史書「続日本紀(しょくにほんぎ)」によると740年(天平12年)2月に第45代・聖武天皇が難波宮(なにわのみや)行幸の際、河内六寺に数えられた大阪府柏原市(河内国大県郡)の知識寺(ちしきじ)で盧舎那仏像を拝したことが大仏造立のきっかけとなったと言われています。
知識寺は7世紀後半に茨田宿禰(まんだのすくね)を中心とした仏教信徒によって創建されたとも言われています。知識寺は740年(天平12年)に第45代・聖武天皇、749年(天平21年・天平感宝元年・天平勝宝元年)と756年(天平勝宝8年)に第46代・孝謙天皇(第48代・称徳天皇)が行幸したが、1086年(応徳3年)の落雷によって伽藍が倒壊し、6丈の観音像が破壊されて荒廃し、鎌倉時代に鎌倉幕府初代将軍・源頼朝(みなもとのよりとも)の命によって観音寺に統合され、智識寺跡が残されています。
●東大寺大仏は752年(天平勝宝4年)5月26日に開眼供養会が行われました。
大仏(盧遮那仏)は743年(天平15年)11月5日に第45代・聖武天皇が近江国・紫香楽宮(しがらきのみや)で大仏造立の詔を発し、紫香楽宮近くの甲賀寺(こうかでら)で建立が始まり、744年(天平16年)12月21日に大仏の骨柱が立てられたと言われています。その後、都が京都府木津川市の恭仁京(くにきょう)・大阪市中央区の難波宮と移り、745年(天平17年)に5年振りに平城京(へいじょうきょう)に戻ると同745年(天平17年)9月23日から平城東山の山金里(東大寺)で大仏造立が開始され、747年(天平19年)11月6日から大仏の鋳造が開始され、749年(天平勝宝元年)12月8日に大仏の鋳造が終了し、752年(天平勝宝4年)5月26日に大仏開眼供養会がインド出身の僧・菩提僊那(ぼだいせんな)を開眼導師として行われました。大仏開眼供養会には聖武太上天皇(第45代・聖武天皇)・光明皇太后や第46代・孝謙天皇(第48代・称徳天皇)など1万数千人が参列したと言われています。なお大仏造立では大仏師が国中公麻呂(くになかのきみまろ)、鋳師が高市大国(たけちのおおくに)・高市真麻呂(たけちのままろ)らです。また大仏造立・大仏殿建立の費用は関西大学の宮本勝浩教授らによると現在の価格にすると約4,657億円、延260万人が工事に関わったとされています。
東大寺見どころ

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