東大寺不動堂・東大寺見どころ

東大寺不動堂

●東大寺不動堂は江戸時代中期頃に公慶上人(こうけいしょうにん)が建立し、護摩堂と言われていたとも言われています。その後1945年(昭和20年)頃に現在の場所に移され、不動堂と言われるようになったと言われています。不動堂は五大明王像(ごだいみょうおうぞう)を安置しています。不動堂では毎月10日の午前10時、18日の午後1時、28日の午前10時から護摩が行われています。なお不動堂には隣接して御朱印授与所があり、御朱印を授かることもできます。
五大明王は魔を降伏させる不動明王(ふどうみょうおう)・降三世明王(ごうさんぜみょうおう)・軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)・大威徳明王(だいいとくみょうおう)・金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)です。五大明王は平安時代前期に密教が隆盛すると五壇法(ごだんほう)の本尊として五大明王が祀られるようになりました。仏像では平安時代前期の839年(承和6年)に造仏され、京都・東寺(とうじ)講堂に安置されている五大明王が最古とされています。なお五大明王は不動明王を中心に降三世明王が東方、軍荼利明王が南方、大威徳明王が西方、金剛夜叉明王が北方に配されます。
護摩はインドの古代宗教・バラモン教の宗教儀礼が起源とされ、主に天台宗(てんだいしゅう)・真言宗(しんごんしゅう)で行われています。護摩には護摩壇に火を点けて護摩木を焚いて祈願する外護摩と心の中の煩悩などを心の火で焼き払う内護摩などがあるそうです。野外の大護摩(採灯大護摩(さいとうおおごま)・大護摩)の起源は真言宗の開祖である弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)の孫弟子である理源大師(りげんだいし)・聖宝(しょうぼう)とも言われています。
公慶上人は江戸時代前期の1648年(慶安元年)に生まれ、東大寺の英慶(えいけい)に三論(さんろん)を学びました。公慶上人は1567年(永禄10年)の松永・三好の合戦(東大寺大仏殿の戦い)による大仏殿の焼失と雨ざらしの大仏(盧舎那仏(るしゃなぶつ)像)を嘆き、大仏殿再建を決意しました。江戸時代中期の1684年(貞享元年)に江戸幕府の許可を得て全国で勧進を進め、江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉(とくがわつなよし)の援助もあり、1692年(元禄5年)に大仏の修理が完成して開眼法要を行いました。1693年(元禄6年)に徳川綱吉に拝謁し、その後も勧進を継続したが、大仏殿の落慶を見ることはなく、1705年(宝永2年)に江戸で亡くなり、遺骸は東大寺に運ばれ、俊乗房重源(しゅん じょうぼうちょうげん)が建立したた五劫院(ごこういん)に埋葬されました。なお大仏殿は1709年(宝永6年)に落慶しました。
●東大寺不動堂は入母屋造(いりもやづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
東大寺見どころ

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