東大寺八幡殿・東大寺見どころ

東大寺八幡殿

●東大寺八幡殿は勧進所内に建立されています。東大寺八幡殿には鎌倉時代前期の1201年(建仁元年)に仏師・快慶(かいけい)が造仏し、かつて東大寺の守護神・手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)に御神体として祀られていた僧形八幡神(そうぎょうはちまんしん)坐像が安置されています。僧形八幡神坐像は明治維新後の神仏分離(廃仏毀釈)により、手向山八幡宮から東大寺に移されました。僧形八幡神坐像は毎年10月5日に行われている転害会(てがいえ)で一般公開されています。
僧形八幡神坐像は桧(ひのき)製の像高約87.1センチで、彩色もよく残されています。僧形八幡神坐像は八幡神の神像だが、神仏習合(しんぶつしゅうごう)・本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)の影響により、僧侶の姿をしています。僧形八幡神坐像は一見地蔵菩薩(じぞうぼさつい)を思わせる姿で、右衽(うじん)の衣の上に袈裟(けさ)を懸け、右手に錫杖(しゃくじょう)を執り、左手は膝のやや内寄りに置いて数珠(じゅず)を繰っています。
転害会は奈良時代の749年(天平勝宝元年)に手向山八幡宮が造営され際、大分・宇佐八幡宮から勧請された祭神が転害門を通って祀られたことに由来しています。転害会が平安時代に行われた際、転害門(国宝)が御旅所(おたびしょ)とされ、鳳輦(ほうれん)・神輿(みこし)などが中央に安置され、手向山八幡宮に向かったそうです。なお転害門は天平宝字年間(757年~765年)頃に建立され、平安時代末期の1180年(治承4年)の平重衡(たいらのしげひら)による南都焼討や戦国時代の1567年(永禄10年)の松永・三好の合戦でも焼失を免れ、天平時代の遺構と言われています。
手向山八幡宮は東大寺の大仏造立の際、奈良時代の749年(天平勝宝元年)に大分・宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)から勧請され、平城宮(へいじょうきゅう)の南にあった梨原宮(なしはらのみや)に東大寺の守護神として造営されました。手向山八幡宮は宇佐八幡宮の分社第一号とされ、鎮守八幡宮とも言われました。その後東大寺の鏡池(かがみいけ)付近に移されたとも言われています。平安時代末期の1180年(治承4年)の平重衡(たいらのしげひら)による南都焼討で焼失し、1188年(文治4年)に東大寺再建勧進職・俊乗坊重源上人(しゅんじょうぼうちょうげんしょうにん)が再建したが、1250年(建長2年)に鎌倉幕府5代執権・北条時頼(ほうじょうときより)が現在の場所に移しました。江戸時代中期の1691年(元禄4年)に本殿が再建されました。明治維新後の神仏分離(廃仏毀釈)により、東大寺から独立しました。なお手向山八幡宮は第15代・応神天皇、姫大神(ひめおおみかみ)、第14代・仲哀天皇・神功皇后(じんぐうこうごう)、第16代・仁徳天皇を祀っています。
東大寺見どころ

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