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東大寺勧進所・東大寺見どころ(修学旅行・観光)
東大寺勧進所
●東大寺勧進所は江戸時代中期の1686年(貞享3年)に公慶上人(こうけいしょうにん)が露座の大仏の修理・大仏殿の再建の為に復興の寺務所と建立しました。公慶上人は東大寺勧進所を拠点にして全国をくまなく行脚し、勧進に命を掛けました。東大寺勧進所には五刧思惟阿弥陀如来像(重要文化財)を安置する阿弥陀堂・僧形八幡神坐像(国宝)を安置する八幡殿・公慶上人坐像(重要文化財)を安置する公慶堂・勧進所経庫(重要文化財)があります。なお東大寺勧進所は通常非公開だが、10月5日に行われる転害会では僧形八幡神坐像が開扉され、五刧思惟阿弥陀如来像・公慶上人坐像が一般公開されます。
公慶上人は1648年(慶安元年)12月29日に鷹山頼茂の子として丹後国宮津(京都府北部宮津市)で生まれました。1660年(万治3年)に東大寺大喜院に入寺し、英慶に師事して三論を学び、式部卿公慶と称しました。戦国時代の1567年(永禄10年)の三好・松永の戦いの兵火で大仏殿が焼失し、100年以上も雨ざらしとなっている露座の大仏を嘆き、大仏殿再建を決意しました。1684年(貞享元年)5月に江戸幕府に大仏修理の許可を願い出で、6月に許可されました。「一紙半銭」を標語に全国に勧進を進め、7年後に1万1千両に達しました。1685年(貞享2年)に大仏修理に着手し、1692年(元禄5年)に大仏の修理が完成して開眼法要を行いました。その後大仏殿の再建に着手し、翌1693年(元禄6年)に江戸に勧進所を設置しました。1694年(元禄7年)に護持院(ごじいん)の隆光(りゅうこう)の仲立ちにより、援助された江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉(とくがわつなよし)に拝謁しました。1705年(宝永2年)に大仏殿の上棟式を行い、江戸幕府に感謝の意を表す拝礼の儀を済ませたが、その直後の1705年(宝永2年)8月30日江戸で客死しました。遺骸は奈良に運ばれ、俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)が建立した五劫院(ごこういん)に埋葬されました。
●東大寺勧進所の勧進所経庫は平安時代前期(794年~929年)に建立されました。勧進所経庫は桁行三間・梁間三間の校倉(あぜくら)で、寄棟造(よせむねづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。
一般的に校倉は三角形・四角形などの断面をした木材を使って、稜(りょう)のひとつを外側に向け、井桁(いげた)に組んで外壁とした倉です。校倉は奈良時代に広く行われていました。校倉には壁面が頑丈で、雨仕舞(あまじまい)がよくて湿気を内部に通しにくく、また乾燥時に壁面から通風があるという特徴があります。なお校倉は甲倉(こうそう)・叉倉(さそう)とも言われています。
寄棟造は四方向に傾斜する屋根面を持つ屋根の形式です。寄棟造は大棟(おおむね)の両端から四方に隅棟(すみむね)が降り、2つの台形と2つの二等辺三角形で構成されます。いずれも奈良県の東大寺の大仏殿や正倉院(しょうそういん)・唐招提寺(とうしょうだいじ)の金堂が代表例です。
本瓦葺は平瓦と丸瓦を交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。
東大寺見どころ