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東大寺辛国社・東大寺見どころ(修学旅行・観光)
東大寺辛国社
●東大寺子辛国社は大仏殿東側で、猫段(石段)沿いに建立されています。辛国社は江戸時代の東大寺諸伽藍略録によると奈良時代に東大寺開山・良弁(ろうべん)が東大寺創建に様々な障害を加える多くの天狗を改心され、仏法護持の誓約をさせて、天狗社を建立したのが始まりとも言われています。東大寺諸伽藍略録には大法会執行の際、必ず天狗社に向かって正法護持を祈ったことも明記されています。ちなみに現在も大法会執行の際に開白前日の夕刻に蜂起の儀が行われています。辛国社は奈良市の阿字万字町(あぜまめちょう)で辛国神社として崇敬されていたが、石灯籠などの刻銘によると1903年(明治36年)頃から天狗社から辛国社に改められたとも言われています。
辛国社には東大寺開山・良弁と辛国行者が法力を争ったが、辛国行者が良弁の法力に屈したという伝承が残されています。辛国行者は良弁に剣を投げつけるが、念珠(ねんじゅ)で祓われ、次に蜂の大軍を向かわせたが、鉄鉢(てっぱち)で圧殺され、最後に恐れをなして倶梨伽羅明王(くりからみょうおう)像を擁して地中に入ったも言われています。ちなみに辛国行者は天狗だったとも言われています。
良弁(良辨) は飛鳥時代後期の689年(持統天皇3年)に近江国または相模国で生まれたとも、百済系渡来人の子孫とも言われています。良弁は母親が野良仕事中にワシにさらわれ、東大寺二月堂前の杉の木に引っ掛かっているのを法相宗(ほっそうしゅう)の僧・義淵(ぎえん・ぎいん)に助けられ、僧として育てられたとも言われています。良弁は義淵から法相・唯識(ゆいしき)を学び、新羅(しらぎ)の僧・審祥(しんじょう)や慈訓(じくん・じきん)から華厳(けごん)を学びました。その後東山 (奈良県生駒市)に隠棲し、自ら刻んだ執金剛神像(しゅこんごうじんぞう)を安置して修行に励み、金鐘行者(こんしゅぎょうじゃ)の異名を得ました。そのことが第45代・聖武天皇の耳にとまり、728年(神亀5年)に聖武天皇の皇太子・基王(もといおう)の菩提の為に若草山山麓に設けられた金鐘山房の智行僧(ちぎょうそう)9人の1人に選ばれました。金鐘山房の羂索院(けんさくいん)を賜り、後に東大寺の前身である金鐘寺(こんしゅじ)になりました。742年(天平14年)に金鐘寺が大和国分寺になり、745年(天平17年)に律師(りっし)になり、751年(天平勝宝4年)に東大寺大仏造立・東大寺建立の功によって東大寺の初代別当になりました。756年(天平勝宝8年)に律宗の開祖・鑑真(がんじん)とともに大僧都(だいそうづ)になり、773年(宝亀4年)には僧尼を統括する僧正(そうじょう)に任命されました。なお良弁は774年(宝亀4年)1月10日に亡くなりました。
●東大寺子辛国社は春日造(かすがづくり)です。
春日造は仏教建築の影響を受け、奈良時代中期に現れたとも言われています。春日造は奈良市の円成寺(えんじょうじ)の春日堂(国宝)・白山堂(国宝)が最古の例になります。ちなみに春日堂・白山堂は鎌倉時代の1228年(安貞2年)に春日大社の本殿を移築したものと言われています。
東大寺見どころ