東大寺念仏堂・東大寺見どころ

東大寺見どころ

●東大寺念仏堂は1903年(明治36年)4月15日に国宝に指定されました。
●東大寺念仏堂は鎌倉時代前期の1237年(嘉禎3年)に建立されました。東大寺念仏堂は俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)が1180年(治承4年)の南都焼討で先陣を務めた田口成良(たぐちのしげよし)などの罪を救う為に発願したとも言われています。
俊乗房重源は平安時代後期の1121年(保安2年)に紀季重(きすえしげ)の子・刑部左衛門尉重定(ぎょうぶさえもんのじょうしげさだ)として京都で生まれ、13歳で真言宗(しんごんしゅう)醍醐派総本山・醍醐寺(だいごじ)で密教を学び、その後浄土宗(じょうどしゅう)の開祖・法然上人(ほうねんしょうにん)に浄土教を学び、大峯(おおみね)熊野・御嶽(おんたけ)・葛城(かつらぎ)などで修行(遊行)しました。1167年(仁安2年)~1176年(安元2年)に3回中国・宋(南宋)に留学したとも言われ、「入唐三度聖人」と称しました。入宋中に浄土教の知識を得たり、阿育王山(あいくおうざん)の舎利殿(しゃりでん)を建立する建築法を体得したりしたと言われています。ちなみに俊乗房重源が大仏殿を再建する際に宋(南宋)から取り入れた建築様式は大仏様(だいぶつよう)と言われています。1180年(治承4年)に平清盛(たいらのきよもり)の五男・平重衡(たいらのしげひら)による南都焼討(なんとやきうち)によって東大寺の伽藍や大仏(盧舎那仏像)が焼失し、俊乗房重源は1181年(養和元年)に被害状況を視察に来た後白河法皇(第77代・後白河天皇)の使者・藤原行隆(ふじわらのゆきたか)に東大寺の再建を進言し、藤原行隆の推挙により、61歳で東大寺大勧進職(だいかんじんしょく)に就きました。俊乗房重源は後白河法皇や太政大臣・九条兼実(くじょうかねざね)、そして鎌倉幕府初代将軍・源頼朝(みなもとよりとも)などに浄財の寄付を依頼し、1185年(文治元年)に大仏の開眼供養が行われ、1195年(建久6年)に大仏殿が再建され、1203年(建仁3年)に総供養が行われ、10数年の歳月を掛けて東大寺を再興しました。なお俊乗房重源は東大寺再興の功によって号・大和尚を賜り、1206年(健永元年)に86歳で亡くなりました。
南都焼討は平安時代末期の1181年(治承4年)1月15日に平清盛(たいらのきよもり)の命により、五男で、総大将・平重衡(たいらのしげひら)らの平氏軍が反平氏勢力である東大寺・興福寺など奈良(南都)の寺院を焼討にした事件です。民家への放火によって東大寺・興福寺が全焼し、東大寺の大仏の首も焼け落ちました。なお平重衡は1184年(元暦元年)に摂津国・一ノ谷の戦い(いちのたにのたたかい)で敗れて捕らえられ、鎌倉に送られたが、奈良(南都)の寺院の要求により、1185年(文治元年)7月21日に木津川畔で斬首され、奈良坂にある般若寺(はんにゃじ)門前で梟首されました。平重衡は享年29歳でした。
田口成良は紀氏(きうじ)の流れを汲み、阿波守に就任した田口息継(たぐちのおきつぐ)の後裔とも言われています。平安時代後期に平清盛(たいらのきよもり)に仕え、平家の有力家人として平清盛から信任されました。兵庫県神戸市・大輪田泊(おおわだのとまり)の築港奉行を務め、日宋貿易の業務を担当したとも言われています。平家打倒を目指した鹿ケ谷の陰謀(ししがたにのいんぼう)で首謀者の一人であった西光の四男・藤原広長を討ち取りました。1180年(治承4年)に平氏政権に対する反乱である治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)が起こると上洛し、南都焼討で先陣を務めました。1183年(寿永2年)に平氏が都落ちすると四国に戻って讃岐を制圧しました。屋島の戦いの前後に伯父・田口良連と弟・桜庭良遠が捕縛・襲撃され、志度合戦で嫡子・田内教能が投降した言われています。壇ノ浦の戦いでは「平家物語」によると平氏を裏切って源氏方に寝返ったとも、「吾妻鏡」によると捕虜になったとも言われています。また延慶本「平家物語」によると裏切って籠に入れられて火あぶりの刑に処されたとも言われています。
東大寺見どころ

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