東大寺大湯屋・東大寺見どころ(修学旅行)

東大寺大湯屋

●東大寺大湯屋は1903年(明治36年)4月15日に国の重要文化財に指定されました。
●東大寺大湯屋は鎌倉時代中期の1239年(延応元年)に俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)の命によって再建され、その後度々修理が行われ、室町時代中期の1408年(応永15年)に拡張を伴って大改築が行われたとも言われています。東大寺大湯屋は奈良時代に建立された温院室が起源と言われ、1180年(治承4年)の平重衡(たいらのしげひら)による南都焼討によって焼失し、1239年(延応元年)に再建されました。なお東大寺大湯屋は僧侶が体の清浄を保つ施設で、釜で温めた湯を鉄湯船に溜めて入浴したと言われています。ただ現在のように湯船に漬かるのではなく、サウナや掛け湯で体を清めました。
俊乗房重源は平安時代後期の1121年(保安2年)に紀季重(きすえしげ)の子・刑部左衛門尉重定(ぎょうぶさえもんのじょうしげさだ)として京都で生まれ、13歳で真言宗(しんごんしゅう)醍醐派総本山・醍醐寺(だいごじ)で密教を学び、その後浄土宗(じょうどしゅう)の開祖・法然上人(ほうねんしょうにん)に浄土教を学び、大峯(おおみね)熊野・御嶽(おんたけ)・葛城(かつらぎ)などで修行(遊行)しました。1167年(仁安2年)~1176年(安元2年)に3回中国・宋(南宋)に留学したとも言われ、「入唐三度聖人」と称しました。入宋中に浄土教の知識を得たり、阿育王山(あいくおうざん)の舎利殿(しゃりでん)を建立する建築法を体得したりしたと言われています。ちなみに俊乗房重源が大仏殿を再建する際に宋(南宋)から取り入れた建築様式は大仏様(だいぶつよう)と言われています。1180年(治承4年)に平清盛(たいらのきよもり)の五男・平重衡(たいらのしげひら)による南都焼討(なんとやきうち)によって東大寺の伽藍や大仏(盧舎那仏像)が焼失し、俊乗房重源は1181年(養和元年)に被害状況を視察に来た後白河法皇(第77代・後白河天皇)の使者・藤原行隆(ふじわらのゆきたか)に東大寺の再建を進言し、藤原行隆の推挙により、61歳で東大寺大勧進職(だいかんじんしょく)に就きました。俊乗房重源は後白河法皇や太政大臣・九条兼実(くじょうかねざね)、そして鎌倉幕府初代将軍・源頼朝(みなもとよりとも)などに浄財の寄付を依頼し、1185年(文治元年)に大仏の開眼供養が行われ、1195年(建久6年)に大仏殿が再建され、1203年(建仁3年)に総供養が行われ、10数年の歳月を掛けて東大寺を再興しました。なお俊乗房重源は東大寺再興の功によって号・大和尚を賜り、1206年(健永元年)に86歳で亡くなりました。
一般的に湯屋は浴場のある建物です。古くから神道では川や滝で沐浴(もくよく)の一種である禊(みそぎ)が行われていました。飛鳥時代に仏教が伝来すると僧侶が沐浴する浴堂(湯堂)などが建立されました。ただ入浴は湯に浸かるのではなく、薬草などを入れた湯を沸かし、蒸気を浴堂内に取り込んだ蒸し風呂形式でした。その後社寺などに参籠する大衆用の潔斎浴場(けっさいよくじょう)も別に建てられ、大湯屋と称しました。平安時代には上級の公家の屋敷内に蒸し風呂の浴堂が取り入れられるようになり、清少納言(せいしょうなごん)の随筆「枕草子(まくらのそうし)」にも蒸し風呂の様子が記されています。ちなみに僧侶は潔斎の為に早くから湯を別の湯槽に入れて行水することもあったが、大衆は長く蒸し風呂形式で、江戸時代初期に湯に浸かる浸す方式になりました。なお古代の浴堂・大湯屋は残っていないが、鎌倉時代以後に東大寺(とうだいじ)・法隆寺(ほうりゅうじ)などで再建された湯屋が残されています。
●東大寺大湯屋は桁行八間・梁間五間で、正面が入母屋造(いりもやづくり)・背面が切妻造(きりづまづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。東大寺大湯屋には鉄湯船(重要文化財)があります。
鉄湯船は重さ約1,688キロ・直径約2.3メートル・高さ約80センチです。鉄湯船の容量は約2,000~3,000リットルです。鉄湯船には中央に約16センチの水抜孔(みずぬきあな)があります。鉄湯船には鎌倉時代前期の1197年(建久8年)に鋳物師で、豊後権守・草部是助(くさかべこれすけ・草部宿祢是助(くさかべのすくねこれすけ))が造ったとの銘文が表面には刻まれいます。なお草部是助は河内鋳物師を率いったと言われ、大仏の頭部も鋳造しました。
東大寺見どころ

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