東大寺良弁杉・東大寺見どころ

東大寺良弁杉

●東大寺良弁杉は二月堂(国宝)前に植えられています。良弁杉は仏教通史「元亨釈書(げんこうしゃくしょ)・鎌倉時代」によると東大寺初代別当・良弁僧正(ろうべんそうじょう)が2歳の時に母親が桑を摘む為、木陰に置いていたところ突然舞い下りた大鷲に去られ、杉の木の上に置き去りにされたが、通り掛かった法相宗の僧・義淵僧正(ぎえんそうじょう)に救われて育てられ、その後母親が刻んだ観音菩薩(かんのんばさつ)の縁(えにし)によって再会し、親孝行を尽くしたことに由来になっています。なお初代・良弁杉は樹齢600年、高さ7丈(約21.2メートル)だった言われています。現在の良弁杉は4代目で、1961年(昭和36年)9月16日の第2室戸台風(最低気圧890hPa・最大風速75m/s)によって3代目・良弁杉が倒れたことから植えられました。
良弁(ろうべん・良辨) は飛鳥時代後期の689年(持統3年)に近江国(滋賀県)または相模国(神奈川県)で生まれたとも、百済系渡来人の子孫とも言われています。出自は明確ではありません。良弁は母親が野良仕事中にワシにさらわれ、東大寺二月堂(春日大社)前の杉の木(良弁杉)に引っ掛かっているのを法相宗(ほっそうしゅう)の僧・義淵(ぎえん・ぎいん)に助けられ、僧として育てられたとも言われています。良弁は義淵から法相・唯識(ゆいしき)を学び、新羅(しらぎ)の僧・審祥(しんじょう)や慈訓(じくん・じきん)から華厳(けごん)を学びました。良弁は日本華厳宗の第二祖とされています。その後東山 (奈良県生駒市)に隠棲し、自ら刻んだ執金剛神像(しゅこんごうじんぞう)を安置して修行に励み、金鐘行者(こんしゅぎょうじゃ)の異名を得ました。そのことが第45代・聖武天皇の耳にとまり、728年(神亀5年)に聖武天皇の皇太子・基王(もといおう)の菩提の為に若草山山麓に設けられた金鐘山房の智行僧(ちぎょうそう)9人の1人に選ばれました。金鐘山房の羂索院(けんさくいん)を賜り、後に東大寺の前身である金鐘寺(こんしゅじ)になりました。742年(天平14年)に金鐘寺が大和国分寺になり、745年(天平17年)に律師(りっし)になり、751年(天平勝宝4年)に東大寺大仏造立・東大寺建立の功によって東大寺の初代別当になりました。756年(天平勝宝8年)に中国からの渡来僧で、律宗の開祖・鑑真(がんじん)とともに大僧都(だいそうづ)になり、773年(宝亀4年)には僧尼を統括する僧正(そうじょう)に任命されました。また第45代・聖武天皇の看病禅師も務めました。なお良弁は774年(宝亀4年)1月10日に亡くなりました。
二月堂はお水取りとも言われる修二会(しゅにえ)が始まった奈良時代の752年(天平勝宝4年)に建立され、平安時代末期の1180年(治承4年)の平重衡(たいらのしげひら)による南都焼討や戦国時代の1567年(永禄10年)の松永・三好の合戦では焼失しなかったが、江戸時代前期の1667年(寛文7年)のお水取り中に失火で焼失し、1669年(寛文9年)に再建されました。二月堂の名称は旧暦の2月に行われる修二会(お水取り)に由来しています。なお二月堂は本尊で、大観音(おおかんのん)・小観音(こがんのん)と言われる十一面観音像2体(国宝)を安置しています。
東大寺見どころ

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