東大寺指図堂・東大寺見どころ(修学旅行・観光)

東大寺指図堂

●東大寺指図堂は江戸時代後期の1852年(嘉永5年)までに再建されたと言われています。東大寺指図堂はかつて平安時代後期に俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)が大仏殿の再建・大仏の再鋳造を指揮した普請場の遺跡と言われています。東大寺指図堂は大仏殿の指図(設計図)を納めたことから名付けられました。東大寺指図堂は江戸時代中期の1707年(宝永4年)までに1567年(永禄10年)焼失の中門堂跡に建立されていたが、1791年(寛政3年)の大風によって倒壊し、1835年(天保6年)に西方寺の隠居慈蓮が再建願が出し、1852年(嘉永5年)までに再建されたと言われています。
俊乗房重源は平安時代後期の1121年(保安2年)に紀季重(きすえしげ)の子・刑部左衛門尉重定(ぎょうぶさえもんのじょうしげさだ)として京都で生まれ、13歳で真言宗(しんごんしゅう)醍醐派総本山・醍醐寺(だいごじ)で密教を学び、その後浄土宗(じょうどしゅう)の開祖・法然上人(ほうねんしょうにん)に浄土教を学び、大峯(おおみね)・熊野・御嶽(おんたけ)・葛城(かつらぎ)などで修行(遊行)しました。1167年(仁安2年)~1176年(安元2年)に3回中国・宋(南宋)に留学したとも言われ、「入唐三度聖人」と称しました。入宋中に浄土教の知識を得たり、阿育王山(あいくおうざん)の舎利殿(しゃりでん)を建立する建築法を体得したりしたと言われています。ちなみに俊乗房重源が大仏殿を再建する際に宋(南宋)から取り入れた建築様式は大仏様(だいぶつよう)と言われています。1180年(治承4年)に平清盛(たいらのきよもり)の五男・平重衡(たいらのしげひら)による南都焼討(なんとやきうち)によって東大寺の伽藍や大仏(盧舎那仏像)が焼失し、俊乗房重源は1181年(養和元年)に被害状況を視察に来た後白河法皇(第77代・後白河天皇)の使者・藤原行隆(ふじわらのゆきたか)に東大寺の再建を進言し、藤原行隆の推挙により、61歳で東大寺大勧進職(だいかんじんしょく)に就きました。俊乗房重源は後白河法皇や太政大臣・九条兼実(くじょうかねざね)、そして鎌倉幕府初代将軍・源頼朝(みなもとよりとも)などに浄財の寄付を依頼し、1185年(文治元年)に大仏の開眼供養が行われ、1195年(建久6年)に大仏殿が再建され、1203年(建仁3年)に総供養が行われ、10数年の歳月を掛けて東大寺を再興しました。なお俊乗房重源は東大寺再興の功によって号・大和尚を賜り、1206年(健永元年)に86歳で亡くなりました。
●東大寺指図堂は法然上人二十五霊場の第11番札所になっています。第11番札所はかつて龍松院だったが、観真房筆の金剛草履をはいた法然上人の御影(法然上人絵図)が本尊として移され、第11番札所が変更されました。江戸時代後期の1859年(安政6年)に法然上人650年御忌が浄土宗寺院の随喜のもとで行われました。なお法然上人は俊乗房重源の招きにより、再建中の大仏殿で浄土三部経を講じられたとも言われています。
法然上人は平安時代後期の1133年(長承2年)4月7日に美作国(岡山県)久米南条稲岡荘の押領使(おうりょうし)・漆間時国(うるまときくに)と秦氏君(はたうじのきみ)清刀自の子として生まれたと言われています。1141年(保延7年)に9歳で父・漆間時国が殺害され、母方の叔父で、僧侶・観覚(かんがく)のもとで剃髪し、1145年(天養2年)に15歳で比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)に登って源光(げんこう)に師事して天台(てんだい)を学びました。しかし1150年(久安6年)に教学などに疑問を感じ、西塔黒谷・叡空(えいくう)のもとで修業し、法然房源空(ほうねんぼうげんくう)と称しました。その後20年間に渡って修学し、中国浄土教の僧・善導(ぜんどう)の「観無量寿経疏(かんむりょうじゅきょうしょ)」や天台宗の僧である恵心僧都(えしんそうず)・源信(げんしん)の「往生要集(おうじょうようしゅう)」により、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」の名号を口に出して称える称名念仏(しょうみょうねんぶつ)に専修する悟りに達し、浄土宗を開きました。京都吉水(よしみず)に草庵を結んで老若貴賤(ろうにやくきせん)に布教したが、女官の出家を契機に南都北嶺(興福寺(こうふくじ)・比叡山延暦寺)から迫害を受け、1207年(承元元年)に讃岐に配流され、その後赦免されて京都に戻りました。なお法然上人は1212年(建暦2年)1月25日に東山大谷(京都市東山区)で亡くなりました。
東大寺見どころ

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