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東大寺転害門・東大寺見どころ(修学旅行・観光)
●東大寺転害門は1899年(明治32年)4月5日に国の重要文化財、1952年(昭和27年)3月29日に国宝に指定されました。
●東大寺転害門は奈良時代の天平宝字年間(757年~765年)頃に建立され、平安時代末期の1180年(治承4年)の平重衡(たいらのしげひら)による南都焼討や戦国時代(室町時代後期)の1567年(永禄10年)の松永・三好の合戦(東大寺大仏殿の戦い)でも焼失を免れた天平時代の遺構と言われています。
●東大寺転害門は大仏造立の際、奈良時代の749年(天平勝宝元年)に東大寺の守護神として大分・宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)から八幡神(やはたのかみ・はちまんしん)を勧請し、その際に一条通から転害門を通ったとも言われています。八幡神は当初平城宮(へいぜいきゅう・へいじょうきゅう)南の梨原宮(なしはらのみや)に神殿を建立して祀られたが、その後東大寺の鏡池付近に移され、1180年(治承4年)の平重衡による南都焼討で焼失し、鎌倉時代中期の1250年(建長2年)に鎌倉幕府第5代執権・北条時頼(ほうじょうときより)が手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)がある現在の場所に再建しました。なお手向山八幡宮は創建以来、東大寺の鎮守社だったが、明治時代の神仏分離によって東大寺から独立しました。手向山八幡宮は第15代・応神天皇(八幡神)、姫大神(ひめおおかみ) 、第14代・仲哀天皇、神功皇后(仲哀天皇の皇后)、第16代・仁徳天皇を祀っています。なお東大寺転害門は手向山八幡宮の御旅所とされています。
南都焼討は平安時代末期の1181年(治承4年)1月15日に平清盛(たいらのきよもり)の命により、五男で、総大将・平重衡(たいらのしげひら)らの平氏軍が反平氏勢力である東大寺・興福寺など奈良(南都)の寺院を焼討にした事件です。民家への放火によって東大寺・興福寺が全焼し、東大寺の大仏の首も焼け落ちました。なお平重衡は1184年(元暦元年)に摂津国・一ノ谷の戦い(いちのたにのたたかい)で敗れて捕らえられ、鎌倉に送られたが、奈良(南都)の寺院の要求により、1185年(文治元年)7月21日に木津川畔で斬首され、奈良坂にある般若寺(はんにゃじ)門前で梟首されました。平重衡は享年29歳でした。
松永・三好の合戦(東大寺大仏殿の戦い)は戦国時代(室町時代後期)の1567年(永禄10年)4月から大和国の戦国大名・松永久秀(まつながひさひで)、河内国の戦国大名・三好義継(みよしよしつぐ)と三好三人衆(三好長逸(みよしながやす)・三好宗渭(みよしそうい)・岩成友通(いわなりともみち))、大和国郡山城主・筒井順慶(つついじゅんけい)、池田城主・池田勝正(いけだかつまさ)らが東大寺周辺で半年間に渡って戦った市街戦です。松永・三好の合戦によって大仏の仏頭・東大寺の伽監・念仏堂・大菩提院・唐弾院・四聖坊・安楽坊などが焼失しました。
●東大寺転害門は一条大路に西面して建立され、は佐保路門(さほじもん)・景清門(かげきよもん)とも言われています。また東大寺転害門はかつて碾磑門・手掻門・手貝門とも表記されていました。