唐招提寺宝蔵・唐招提寺見どころ(修学旅行)

●唐招提寺宝蔵は1904年(明治37年)2月18日に国の重要文化財、1959年(昭和34年)6月27日に国宝に指定されました。
●唐招提寺宝蔵は唐招提寺創建時の奈良時代(710年~793年)に建立されたとも言われています。唐招提寺は759年(天平宝字3年)に唐(中国)の渡来僧・鑑真和上(がんじんわじょう)が第40代・天武天皇の第7皇子・新田部親王(にいたべしんのう)の宅跡を下賜され、当初新田部親王の旧宅を改造した経蔵・宝蔵・講堂などだけしかなかったとも言われています。なお唐招提寺宝蔵は経蔵と並んで建つが、経蔵よりも一回り大きくなっています。
一般的に宝蔵は寺宝・経典など貴重な宝物を納める蔵です。寺宝を納める場合には宝庫、経典を納める場合には経蔵・経堂とも言われています。
鑑真和上は飛鳥時代にあたる688年に中国揚州(ようしゅう)江陽県(こうようけん)に生まれました。14歳で智満の元で出家し、18歳で道岸から菩薩戒を受け、20歳から長安で律宗(りっしゅう)・天台宗(てんだいしゅう)を学んで修行を積み、江南第一の大師と称されました。その後揚州・大明寺(だいめいじ)の住職であった742年(天宝元年)に遣唐使として唐に渡った栄叡(ようえい)・普照(ふしょう)から伝戒の師としての招請を受け、753年(天平勝宝5年)に6回目の挑戦の末に来日しました。来日後の5年間は東大寺(とうだいじ)で過ごし、大仏殿に戒壇(かいだん)を築き、聖武上皇(第45代・聖武天皇)から僧尼まで400名に菩薩戒(ぼさつかい)を授けました。その後759年(天平宝字3年)に第40代・天武天皇の皇子・新田部親王(にいたべしんのう)の旧邸宅跡が与えられ、唐招提寺を創建すると唐招提寺に移り、戒壇を設置しました。なお鑑真和上は763年(天平宝字7年)5月6日に76歳で亡くなりました。
●唐招提寺宝蔵は桁行三間・梁間三間で、寄棟造(よせむねづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。唐招提寺宝蔵は校倉(あぜくら)です。唐招提寺宝蔵は内部の棚廻りまで旧規を残しておあり、奈良時代の校倉の代表的遺構と言われています。
寄棟造は四方向に傾斜する屋根面を持つ屋根の形式です。寄棟造は大棟(おおむね)の両端から四方に隅棟(すみむね)が降り、2つの台形と2つの二等辺三角形で構成されます。いずれも奈良県の東大寺の大仏殿や正倉院(しょうそういん)・唐招提寺(とうしょうだいじ)の金堂が代表例です。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
一般的に校倉は三角形・四角形などの断面をした木材を使って、稜(りょう)のひとつを外側に向け、井桁(いげた)に組んで外壁とした倉です。校倉は奈良時代に広く行われていました。校倉には壁面が頑丈で、雨仕舞(あまじまい)がよくて湿気を内部に通しにくく、また乾燥時に壁面から通風があるという特徴があります。なお校倉は甲倉(こうそう)・叉倉(さそう)とも言われています。
唐招提寺見どころ

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