唐招提寺経蔵・唐招提寺見どころ(修学旅行)

●唐招提寺経蔵は1904年(明治37年)2月18日に国の重要文化財、1953年(昭和28年)11月14日に国宝に指定されました。
●唐招提寺経蔵は奈良時代、759年(天平宝字3年)の唐招提寺創建以前にあった第40代・天武天皇の第7皇子・新田部親王(にいたべしんのう)邸の米倉を改造したものと言われています。唐招提寺経蔵は山内最古の建物で、日本最古の校倉(あぜくら)です。
新田部親王は第40代・天武天皇と藤原鎌足(ふじわらのかまたり)の娘・五百重娘(いおえのいらつめ)の第10皇子として生まれました。飛鳥時代後期の700年(第42代・文武天皇4年)に浄広弐(じょうこうに)に叙され、701年(大宝元年)の大宝令の制定に伴う位階制度の移行で三品(さんぼん)になり、その後二品(にほん)になりました。719年(養老3年)に第44代・元正天皇から舎人親王(とねりしんのう)とともに皇太子・首親王(第45代・聖武天皇)の補佐を命じられ、内舎人(うどねり)・大舎人(おおとねり)・衛士(えいし)を与えられ、封戸(ふこ)が加増されました。720年(養老4年)に右大臣・藤原不比等(ふじわらのふひと)が亡くなると知五衛及授刀舎人事(ちごえいおよびじゅとうとねりじ)に任命され、朝廷直轄の軍事力(五衛府(ごえふ)・授刀舎人寮(じゅとうとねりりょう))の統括者になり、721年(養老5年)に右大臣・長屋王(ながやおう)とともに皇親政権を構成しました。724年(神亀元年)に第45代・聖武天皇が即位すると一品(いっぽん)に昇叙されました。729年(神亀6年)の長屋王の変(ながやおうのへん)では長屋王を尋問しました。731年(天平3年)に大惣管(だいそうかん)に任じられました。新田部親王は735年(天平7年)9月30日に亡くなりました。なお新田部親王邸跡から部分的に金箔や漆で覆われたレリーフ形式の仏像・せん仏の破片が発掘されました。
一般的に経蔵は寺院で一切経(いつさいきよう)などの経典を納める蔵です。経蔵は経堂・経楼とも言われています。
一般的に校倉は三角形・四角形などの断面をした木材を使って、稜(りょう)のひとつを外側に向け、井桁(いげた)に組んで外壁とした倉です。校倉は奈良時代に広く行われていました。校倉には壁面が頑丈で、雨仕舞(あまじまい)がよくて湿気を内部に通しにくく、また乾燥時に壁面から通風があるという特徴があります。なお校倉は甲倉(こうそう)・叉倉(さそう)とも言われています。
●唐招提寺経蔵は桁行三間・梁間三間で、寄棟造(よせむねづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。
寄棟造は四方向に傾斜する屋根面を持つ屋根の形式です。寄棟造は大棟(おおむね)の両端から四方に隅棟(すみむね)が降り、2つの台形と2つの二等辺三角形で構成されます。いずれも奈良県の東大寺の大仏殿や正倉院(しょうそういん)・唐招提寺(とうしょうだいじ)の金堂が代表例です。
本瓦葺は平瓦と丸瓦を交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。
唐招提寺見どころ

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