唐招提寺松尾芭蕉句碑・唐招提寺見どころ(修学旅行)

唐招提寺松尾芭蕉句碑

●唐招提寺松尾芭蕉句碑は開山堂近くに建立されています。江戸時代中期の1688年(貞享5年)に江戸時代前期の俳人(俳諧師)・松尾芭蕉は鑑真和上坐像を拝し、「若葉して 御目の雫 拭はばや(わかばして おんめのしずく ぬぐわばや)」と詠んだ言われ、その句が刻まれています。俳句には「みずみずしい若葉で、盲目の鑑真上人の涙を そっと拭いて差し上げたい」という意味があるそうです。
松尾芭蕉は江戸時代前期の1644年(寛永21年)に阿拝郡柘植郷の土豪一族である松尾与左衛門 (まつおよざえもん) と百地(ももち・桃地)氏出身とも言われる母との次男として伊賀国阿拝郡(三重県伊賀市)に生まれました。1656年(明暦2年)13歳の時に父・松尾与左衛門が亡くなり、1662年(寛文2年)に伊賀国上野の侍大将・藤堂新七郎良清(とうどうしんしちろうよしきよ)の嗣子・藤堂主計良忠(とうどうかずえよしただ・蝉吟(せんぎん))に料理人として仕え、良忠とともに歌人・俳人である北村季吟(きたむらきぎん)に俳諧を京都で学びました。1662年(寛文2年)年末に詠んだ俳句「春や来し 年や行けん 小晦日」が残されています。1666年(寛文6年)に良忠が亡くなると仕官を退き、俳諧に精進し、1672年(寛文12年)に処女句集「貝おほひ」を三重県伊賀市の上野天神宮(うえのてんじんぐう・菅原神社(すがわらじんじゃ))に奉納しました。1674年(延宝2年)に北村季吟から俳諧作法書「俳諧埋木」を伝授され、1675年(延宝3年)に江戸に上りました。江戸俳壇の後見とも言える磐城平藩主・内藤義概(ないとうよしむね)のサロンに出入りし、1680年(延宝8年)に草庵・芭蕉庵を深川に結びました。僧侶・歌人である西行(さいぎょう)500回忌に当たる1689年(元禄2年)3月27日に弟子・河合曾良(かわいそら)を伴って奥州に旅立ち、西行や僧侶・歌人である能因(のういん)らの歌枕や名所旧跡を辿り、同年8月下旬に岐阜大垣に着き、600里(約2,400キロ)の旅を終えました。1694年(元禄7年)4月に「おくのほそ道」が刊行されました。なお松尾芭蕉は1694年(元禄7年)10月12日に大阪で亡くなりました。遺骸は近江(滋賀)の義仲寺(ぎちゅうじ)に運ばれ、遺言に従って木曾義仲(きそよしなか)の墓の隣に葬られました。
鑑真和上は奈良時代の688年に唐(中国)・揚州(ようしゅう)江陽県(こうようけん)に生まれ、14歳で智満(ちまん)の元で出家し、18歳で道岸(どうがん)から菩薩戒(ぼさつかい)を受け、20歳から古都・長安(ちょうあん)で律宗(りっしゅう)・天台宗(てんだいしゅう)を学んで修行を積み、江南第一の大師と称されました。その後揚州・大明寺(だいめいじ)の住職であった742年(天宝元年)に遣唐使(けんとうし)として唐に渡った栄叡(ようえい)・普照(ふしょう)から伝戒(でんかい)の師としての招請を受け、奈良時代中期の753年(天平勝宝5年)に6回目の挑戦の末に来日しました。ちなみに鑑真和上は5度の渡航失敗中に失明しました。来日後の5年間は東大寺(とうだいじ)で過ごし、大仏殿に戒壇(かいだん)を築き、聖武上皇(第45代・聖武天皇)から僧尼まで400名に菩薩戒を授けました。その後759年(天平宝字3年)に第40代・天武天皇の皇子・新田部親王(にいたべしんのう)の旧邸宅跡が与えられて唐招提寺が創建されると唐招提寺に移りました。なお鑑真和上は奈良時代後期の763年(天平宝字7年)5月6日に76歳で亡くなりました。
唐招提寺見どころ

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