- Home
- 唐招提寺南大門・唐招提寺見どころ(修学旅行・観光)
唐招提寺南大門・唐招提寺見どころ(修学旅行・観光)
唐招提寺南大門
●唐招提寺南大門は律宗(りっしゅう)の開祖・鑑真和上(がんじんわじょう)1,200年遠忌を機として、1960年(昭和35年)に再建されました。南大門をくぐると正面に金堂(国宝)、その背後に講堂(国宝)が建立されています。かつて南大門と金堂の間に中門が建立されていました。南大門は天平様式の五間三戸の門で、切妻造(きりづまづくり)の本瓦葺(ほん2がわらぶき)です。南大門にはかつて講堂または中門に掛けられていたとも言われる第46代・孝謙天皇筆の扁額(奈良時代)「唐招提寺」の複製が掛けられています。
一般的に南大門は寺院などで南に面した正門で、中心的な建物に通じる門です。中国では都城や寺院などの建物が南側に面して建てられていることに由来しています。南大門は北・東・西の門よりも大きくなっています。
鑑真和上は奈良時代の688年に唐(中国)・揚州(ようしゅう)江陽県(こうようけん)に生まれました。14歳で智満(ちまん)の元で出家し、18歳で道岸(どうがん)から菩薩戒(ぼさつかい)を受け、20歳から古都・長安(ちょうあん)で律宗(りっしゅう)・天台宗(てんだいしゅう)を学んで修行を積み、江南第一の大師と称されました。鑑真和上は法蔵部(ほうぞうぶ・曇無徳部(どんむとくぶ))に伝承されてきた四分律(しぶんりつ)に基づく南山律宗の継承者で、4万人以上に授戒を行ったとも言われています。その後揚州・大明寺(だいめいじ)の住職であった742年(天宝元年)に遣唐使(けんとうし)として唐に渡った栄叡(ようえい)・普照(ふしょう)から伝戒(でんかい)の師としての招請を受け、奈良時代中期の753年(天平勝宝5年)に6回目の挑戦の末に来日しました。ちなみに鑑真和上は5度の渡航失敗中に失明しました。来日後の5年間は東大寺(とうだいじ)で過ごし、大仏殿に戒壇(かいだん)を築き、聖武上皇(第45代・聖武天皇)から僧尼まで400名に菩薩戒を授けました。759年(天平宝字3年)に第40代・天武天皇の皇子・新田部親王(にいたべしんのう)の旧邸宅跡が与えられ、唐招提寺が創建されると唐招提寺に移りました。なお鑑真和上は奈良時代後期の763年(天平宝字7年)5月6日に76歳で亡くなりました。
第46代・孝謙天皇(第48代・称徳天皇)は718年(養老2年)に第45代・聖武天皇と藤原氏出身で史上初めて人臣から皇后になった光明皇后(光明子(こうみょうし))の間に阿倍内親王(あべないしんのう)として生まれました。第45代・聖武天皇と光明皇后の間には基王(もといおう・基皇子(もといのみこ))が生まれたが、早世しました。また第45代・聖武天皇と県犬養広刀自(あがたのいぬかいのひろとじ)の間には安積親王(あさかしんのう)が生まれたが、後ろ盾を持たなかったことから阿倍内親王が738年(天平10年)に立太子し、史上唯一の女性皇太子になりました。744年(天平17年)に安積親王が亡くなり、749年(天平勝宝元年)に父・聖武天皇が譲位し、第46代・孝謙天皇に即位しました。758年(天平宝字2年)に病気の母・光明皇太后に仕える為に大炊王(第47代・淳仁天皇)に譲位して上皇になりました。その後弓削道鏡(ゆげのどうきょう)を寵愛するようになり、孝謙上皇・弓削道鏡と対立した藤原仲麻呂の乱(ふじわらのなかまろのらん・恵美押勝の乱(えみのおしかつのらん))が起こると第47代・淳仁天皇が廃帝(はいたい)とされ、第46代・孝謙天皇に重祚(ちょうそ)しました。その後弓削道鏡が皇位に就くべしという宇佐八幡宮神託事件(うさはちまんぐうしんたくじけん・道鏡事件)が起こりました。なお第46代・孝謙天皇(第48代・称徳天皇)は770年(神護景雲4年)8月28日に崩御しました。
唐招提寺見どころ