壷阪寺の歴史-修学旅行・観光の簡単解説(弁基上人

壷阪寺の歴史を時代別年表にまとめ
壷阪寺の歴史を簡単にまとめています。壷阪寺は703年(大宝3年)に弁基上人が創建したのが起源とも言われています。弁基上人は壷阪で修行していた際、愛用の水晶の壺を坂の上の庵に納め、感得した観音像を刻んだと言われています。(時代別年表・重要人物下記参照)
【元興寺】
●元興寺(がんごうじ)は588年(崇峻天皇元年)に蘇我馬子(そがのうまこ)が甥で、第32代・崇峻天皇(すしゅんてんのう)が即位した際、蘇我氏の氏寺として法興寺(ほうこうじ)を飛鳥に創建したのが起源とも言われています。地名から飛鳥寺(あすかでら)と言われるようになりました。
【壷阪寺創建(起源・由来)】
●壷阪寺は703年(大宝3年)に元興寺の僧・弁基上人(べんきしょうにん)が創建したと言われています。寺蔵の「南法花寺古老伝」によると弁基上人は壷阪の山で修行していた際、愛用の水晶の壺を坂の上の庵に納め、感得した観音(かんのん)像を刻んだと言われています。境内からは藤原宮の時期に造られた瓦が多数出土しています。ちなみに藤原京は690年(持統天皇4年)に着工され、694年(持統天皇8年)に飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)から遷都されました。その後708年(和銅元年)に平城京遷都の勅が下されたそうです。なお1962年(昭和37年)から始まった礼堂の解体修理の際、地下の調査が行われ、八角円堂の基壇石・三尊磚仏・軒瓦など創建時の様相を示す出土品が出土しました。
【奈良時代(710年頃~794年頃)の歴史・出来事】
●奈良時代前期に第44代・元正天皇(げんしょうてんのう)の祈願寺(きがんじ)になりました。なお元正天皇は680年(天武天皇9年)に草壁皇子(くさかべのみこ)と正妃・阿部皇女(第43代・元明天皇(げんめいてんのう))の長女として生まれました。元正天皇は結婚経験は無く、独身で即位した初めての女性天皇です。
【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】
●847年(承和14年)に長谷寺(はせでら)とともに定額寺(じょうがくじ)に列せられ、ともに観音霊場として信仰されました。清少納言(せいしょうなごん)は「枕草子(まくらのそうし)」の中で、「寺は壷坂、笠置、法輪・・・」と記し、霊験あらたかな寺院の筆頭に挙げています。
●1007年(寛弘4年)に左大臣・藤原道長(ふじわらのみちなが)が吉野参詣の際に宿泊したと言われています。
●1096年(嘉保3年)に火災によって伽藍の多くが焼失しました。往時に36堂・60余坊もの堂舎が建立されていたが、灰燼に帰しました。
●平安時代後期に子島寺(こじまでら)の真興上人が復興し、真言宗(しんごんしゅう)子島法流(壷坂法流)の一大道場になり、西国三十三所の観音霊場信仰とともに寺門が栄えました。
●平安時代に京都・清水寺(きよみずでら)が北法華寺と言われたのに対し、南法華寺と言われました。
【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】
●1211年(承元5年)に大門・僧房が罹災しました。
【南北朝時代(1337年頃~1392年頃)の歴史・出来事】
●南北朝時代に兵火に見舞われました。
【戦国時代(1493年頃~1590年頃)の歴史・出来事】
●戦国時代に兵火に見舞われました。庇護していた越智氏が滅亡すると衰退し、礼堂・三重塔などだけが残されました。
【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の歴史・出来事】
●安土桃山時代に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の異父弟・豊臣秀長(とよとみひでなが)の家臣で、高取城主・本多利久(ほんだとしひさ)などの庇護によって再興しました。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】
●江戸時代に高取藩主・植村氏の庇護を受けました。
【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】
●1961年(昭和36年)に日本初の養護盲老人ホーム・慈母園をつくりました。
【壷阪寺の開山である弁基上人】
弁基上人は生没年不詳です。弁基上人は元興寺の僧だったが、701年(大宝元年)に還俗し、春日倉老(かすがのくらのおゆ・春日蔵首)の氏姓を与えられたと言われています。その後714年(和銅7年)に正六位上から従五位下に昇叙され、常陸介(ひたちのすけ)に任じられたと言われています。弁基上人は万葉歌人として知られ、「万葉集」に歌8首(弁基上人1首・春日倉老7首)、「懐風藻」に漢詩1首が収められています。また「常陸国風土記」の編者だったとも言われています。
【壷阪寺の歴史 備考】
*参考・・・壷阪寺(歴史・見どころ・・・)ホームページ