和爾下神社本殿・和爾下神社見どころ(修学旅行・観光)

和爾下神社本殿

●和爾下神社本殿は1938年(昭和13年)8月26日に国の重要文化財に指定されました。
●和爾下神社本殿は桃山時代から江戸時代初期の慶長年間(1596年~1615年)に建立されました。本殿は素戔嗚尊(すさのおのみこと)・大己貴命(おおなむちのみこと)・稲田姫命(いなだひめのみこと)を祀っています。素戔嗚尊は神仏習合時代に牛頭天王(ごずてんのう)と同一視され、牛頭天王社とも言われました。
素戔嗚尊は日本最古の正史「日本書紀」によると伊奘諾尊と伊奘冉尊の子で、天照大神の弟とされています。伊奘諾尊から海原の支配を命じられたが、使命を果たさなかったことから根の国に追放されました。高天原に天照大神を訪ねたが、素戔嗚尊が攻めて来たと考えた天照大神は武装して応対し、素戔嗚尊は疑いを解く為に誓約を行って邪心のないことを証明しました。しかし高天原で乱暴を行った為、天照大神が怒って天の岩戸に隠れ、高天原から追放されました。素戔嗚尊は出雲国簸川のほとりに降り、八岐大蛇を退治し、救った櫛稲田姫命と結婚し、大国主神(大己貴神)が産まれ、出雲の祖神になりました。素戔嗚尊は八岐大蛇の尾から得た天叢雲剣(草薙剣)を天照大神に献じ、八咫鏡・八尺瓊勾玉とともに三種の神器になりました。
大己貴神は大国主命のことです。大国主命は日本最古の歴史書「古事記」や日本最古の正史「日本書紀」によると皇祖神とされる天照大神の弟・素戔嗚尊の六世の孫で、日本国を創った神とされています。大国主命は伊奘諾尊と伊奘冉尊による国産み・神産みが伊奘冉尊の死によって未完のまま放置された為、高天原の神である天津神の命により、国土を少彦名命とともに完成させ、天照大神の使者が来ると国土を献上して隠退したとされています。また大国主命は因幡の白兎でも知られています。大国主命は兄たちとともに因幡国八上郡の女神・八上比売に求婚する為に因幡を訪れ、皮を剥がされた兎に出会います。兄たちは海水を浴びて風に当たるようにと告げたことから兎の傷は悪化したました。大国主命は兎の傷を治したことから兎は八上比売が大国主命を選ぶであろうと予言し、二人は結ばれました。なお大国主命は大己貴神以外にも八千矛神・葦原色許男命などの別名を持っています。
稲田姫命は脚摩乳と手摩乳夫婦の8番目の末娘です。稲田姫命は7人の姉と同様に八岐大蛇の生け贄になるところを素戔嗚尊に助けられ、その妻になり、八島士奴美神が生まれました。ちなみに稲田姫命は素戔嗚尊の神通力により、小さな櫛に変えられたとも言われています。なお稲田姫命は櫛稲田姫之命・奇稲田姫・稲田媛・眞髪觸奇稲田媛・久志伊奈太美等与麻奴良比売命などとも言われています。
●和爾下神社本殿は桁行三間・梁間一間で、切妻造(きりつまづくり)の檜皮葺(ひわだぶき)です。本殿は向拝(こうはい)一間(いっけん)です。
切妻造は屋根の最頂部の棟(むね)から両側に葺き下ろし、その両端を棟と直角に切った屋根の形式です。切妻造は本を開いて伏せたような形で、平行な面を平(ひら)、棟と直角な面を妻(つま)と言います。切妻造は古くは真屋(まや)とも言われ、伊勢神宮(いせじんぐう)・出雲大社(いづもたいしゃ)などの社殿に採用されています。ちなみに四方向に傾斜する屋根面を持つ寄棟造(よせむねづくり)よりも格式が上とも言われています。
檜皮葺は屋根葺手法の一形式です。檜皮葺では檜(ひのき)の樹皮を用いて屋根を葺きます。檜皮葺は日本以外では見られない日本古来の手法です。檜皮葺は飛鳥時代の668年(天智天皇7年)に滋賀県大津市の廃寺・崇福寺(すうふくじ)の諸堂が檜皮で葺かれた記録が最古の記録です。
向拝は寺院・神社建築で仏堂・社殿の屋根の中央が前方に張り出した部分です。向拝は仏堂・社殿の入口に階段上に設けられることから階隠(はしかくし)とも言われています。
和爾下神社

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