薬師寺玄奘塔・薬師寺見どころ(修学旅行)

薬師寺玄奘塔

●薬師寺玄奘塔は1991年(平成3年)に玄奘三蔵院伽藍の中央に建立されました。玄奘塔には玄奘三蔵の頂骨(頭部の遺骨)が安置されています。頂骨は1942年(昭和17年)に中国南京で発見され、その後全日本仏教会に分骨されました。薬師寺では1981年(昭和56年)に玄奘三蔵の遺徳顕彰の為に埼玉県さいたま市の慈恩寺(じおんじ)から分骨されました。玄奘塔には須弥壇(しゅみだん)に仏師・大川逞一(おおかわていいち)が造仏された玄奘三蔵像が安置されています。玄奘三蔵像は引き締まった顔、たくましい身体で右手に筆、左手にインドの経典・貝葉経(ばいようきょう)を持ち、天竺(インド)からの帰国後に経典の翻訳に尽力される姿が表現されています。なお玄奘塔の正面には故・高田好胤(たかだこういん)和上の染筆による額「不東」が掛けられています。「不東」は玄奘三蔵が経典を手に入れるまで東(中国)には帰らないという決意を表す言葉です。
玄奘三蔵法師は602年に父・陳慧(陳恵)と母・宋欽の娘の四男として生まれました。10歳で父が死亡し、浄土寺に出家していた次兄・長捷(陳素)とともに浄土寺で学び、11歳で「維摩経(ゆいまきょう)」・「法華経(ほけきょう)」を誦すようになり、13歳で「涅槃経(ねはんぎょう)」・「摂大乗論(しょうだいじょうろん)」を学び、622年に21歳で具足戒(ぐそくかい)を受けました。629年に唐(中国)の国禁を犯してインドに陸路で向かい、ナーランダ大学で戒賢(シーラバドラ)に師事して唯識(ゆいしき)を学び、インド各地の仏跡を巡拝しました。645年に経典657部・仏舎利(ぶっしゃり)・仏像などを中国長安に持ち帰り、皇帝・太宗(たいそう)から密出国を許されました。皇帝・太宗からは側近となって国政に参加するよう求められたが、それを断って経典の翻訳(漢訳)に余生の捧げました。ただ皇帝・太宗の命により、西域を見聞した報告書「大唐西域記(だいとうさいいきき)」を編纂しました。弘福寺の翻経院で翻訳事業を開始し、663年に全16部(会)・600巻・字数500万字にも及ぶ経典「大般若経・だいはんにゃきょう(大般若波羅蜜多経(だいはんにゃはらみったきょう))」を作り上げました。玄奘三蔵法師は「大般若経」・「瑜珈師地論(ゆがしじろん)」・「倶舎論(くしゃろん)」など経典75部・1,335巻を漢訳し、鳩摩羅什(くまらじゅう)とともに二大訳聖と言われています。玄奘三蔵法師は「大般若経」を完成させた百日後の664年2月5日に亡くなりました。
大川逞一は1899年(明治32年)5月17日に千葉県で生まれました。東京美術学校(東京芸大)に入学し、藤川勇造(ふじかわゆうぞう)に学びました。1923年(大正12年)に日本美術院の太子展で入選し、1934年(昭和9年)に東京美術学校の嘱託として法隆寺(ほうりゅうじ)の仏像(国宝)を模刻しました。その後薬師寺の三蔵法師像を造仏したり、日光輪王寺(りんのうじ)の秘仏を復元したりしました。またビルマ賠償用の大仏の原型も制作しました。なお大川逞一は1992年(平成4年)9月18日に亡くなりました。
●薬師寺玄奘塔は八角円堂で、本瓦葺(ほんがわらぶき)です。
一般的に八角円堂(八角堂)は壁面を八角形にした宝形造り(ほうぎようづくり)の仏堂です。八角円堂では奈良時代の739年(天平11年)に建立された法隆寺の夢殿(国宝)と奈良時代の760年(天平宝字4年)~764年(天平宝字8年)に建立された栄山寺(えいさんじ)の八角堂(国宝)などが知られています。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
薬師寺見どころ

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