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薬師寺慈恩殿・薬師寺見どころ(修学旅行・観光)
薬師寺慈恩殿
●薬師寺慈恩殿は玄奘三蔵院伽藍に建立されています。慈恩殿は江戸時代に建立されたと言われています。ちなみに慈恩殿は法相宗の宗祖である慈恩大師(じおんだいし)・窺基(きき)に由来しています。2019年(令和元年)に元内閣総理大臣・細川護熙(ほそかわもりひろ)が描いた障壁画が奉納されました。障壁画は「東と西の融合」をテーマとして描かれ、約100畳の広間を囲むように66面・113枚(全長157.72メートル)から構成されています。障壁画は玄奘三蔵のシルクロードの旅をイメージし、多国籍の人々や動物などがフレスコ画の手法で描かれ、包み込むように天女や飛天が舞っています。
慈恩大師・窺基は632年に唐(中国)の功臣で、父・尉遅敬徳(うっちけいとく)と母・裴(はい)氏との間に生まれました。17歳で出家し、二大訳聖・玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)に師事し、玄奘三蔵が645年にインドから持ち帰った経典の翻訳に参加しました。659年に訳した成唯識論(じょうゆいしきろん)を注釈し、成唯識論述記(じゅっき)・成唯識論掌中枢要(しょうちゅうすうよう)を記しました。なお慈恩大師は法苑義林章(ほうおんぎりんじょう)・成唯識論述記を記し、法相宗の宗義が形成されたと言われています。
細川護熙は1938年(昭和13年)1月14日に細川家第17代当主・細川護貞と近衛文麿の次女・近衛温子の長男として生まれました。上智大学法学部卒業後に朝日新聞社に入社しました。その後朝日新聞社を退職し、政界進出を志し、参議院議員(3期)・熊本県知事(第45代・第46代)・衆議院議員(2期)を歴任しました。1993年(平成5年)の第40回衆議院議員総選挙で日本新党が躍進し、1993年(平成5年)8月9日に細川連立政権が誕生しました。しかし1994年(平成6年)4月28日に借入金問題などから首相を退陣し、1998年5月7日に政界を引退しました。その後陶芸家・茶人などとして活動し、2013年(平成25年)に京都・建仁寺の塔頭・正伝永源院の襖絵24面を描きました。
玄奘三蔵法師は602年に父・陳慧(陳恵)と母・宋欽の娘の四男として生まれました。10歳で父が死亡し、浄土寺に出家していた次兄・長捷(陳素)とともに浄土寺で学び、11歳で「維摩経」・「法華経」を誦すようになり、13歳で「涅槃経」・「摂大乗論」を学び、622年に21歳で具足戒を受けました。629年に唐(中国)の国禁を犯してインドに陸路で向かい、ナーランダ大学で戒賢に師事して唯識を学び、インド各地の仏跡を巡拝しました。645年に経典657部・仏舎利・仏像などを中国長安に持ち帰り、皇帝・太宗から密出国を許されました。皇帝・太宗からは側近となって国政に参加するよう求められたが、それを断って経典の翻訳(漢訳)に余生の捧げました。ただ皇帝・太宗の命により、西域を見聞した報告書「大唐西域記」を編纂しました。弘福寺の翻経院で翻訳事業を開始し、663年に全16部(会)・600巻・字数500万字にも及ぶ経典「大般若経(大般若波羅蜜多経)」を作り上げました。玄奘三蔵法師は「大般若経」・「瑜珈師地論」・「倶舎論」など経典75部・1,335巻を漢訳しました。玄奘三蔵法師は「大般若経」を完成させた百日後の664年2月5日に亡くなりました。
●薬師寺慈恩殿は入母屋造(いりもやづくり)の銅板葺(どうばんぶき)です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
銅板葺は銅を薄くした銅板で屋根を葺く方法です。銅板葺は近世に本格的に始まり、神社・霊廟などに多く用いられています。銅板葺は瓦葺に比べると自重が軽くて耐震性があり、檜皮葺・こけら葺に比べると耐久性があるとい言われています。なお765年(天平宝字9年・天平神護元年)に奈良・西大寺(さいだいじ)で銅板葺が用いられたのが最古の記録とも言われています。
薬師寺見どころ