薬師寺若宮社・龍王社・薬師寺見どころ(修学旅行)

薬師寺若宮社・龍王社

●薬師寺若宮社・龍王社は白鳳伽藍に建立されています。若宮社・龍王社は第40代・天武天皇と第38代・天智天皇の皇女・大田皇女の第3皇子・大津皇子の鎮魂の為に建立されたといわれています。若宮社は大津皇子を祭神として祀り、龍王社は室町時代に造られたとされる伝・大津皇子坐像を安置しています。なお大津皇子は686年(朱鳥元年)の父である第40代・天武天皇の崩御後に謀反の嫌疑を掛けられて自害しました。その後大津皇子の怨霊は「悪龍」になったとも言われ、689年(持統天皇3年)に異母兄で、鵜野讃良皇后(第41代・持統天皇)の子・草壁皇子は皇位に就くことなく27歳で亡くなり、鵜野讃良皇后(第41代・持統天皇)の孫で、草壁皇子の子である第42代・文武天皇は24歳で崩御しました。大津皇子は大和(奈良)のどこかに埋葬されましたが、その祟りなどを恐れて二上山に改葬されました。
大津皇子は飛鳥時代後期の663年(天智天皇2年)に第40代・天武天皇(てんむてんのう)と第38代・天智天皇(てんぢてんのう)の皇女・大田皇女(おおたのひめみこ)の第3皇子として九州福岡の那大津(なのおおつ)で生まれました。日本最古の漢詩集「懐風藻(かいふうそう)」によると幼い頃から学問を好んで書物をよく読み、知識が深く、見事な章を書きました。成人すると武芸を好んで巧みに剣を扱い、その人柄は規則にこだわらずに自由気ままで、皇子でありながら謙虚で、人士を厚く遇しました。体格や容姿が逞しく、寛大であったことから人柄を慕って、多くの人々の信望を集めたと言われています。日本最古の正史「日本書紀(にほんしょき)」にもおなじ趣旨の讃辞が記されています。母・大田皇女は第40代・天武天皇の皇后となった鵜野讃良皇后(第41代・持統天皇)の姉だったことから順当にいくと父・天武天皇の皇后になりえたが、4歳の時に亡くなり、また同母姉・大来皇女(おおくのひめみこ)が初代・伊勢斎宮(さいぐう・斎王)なったことから大津皇子は後ろ盾が乏しかった。父・天武天皇(大海人皇子)と第38代・天智天皇の皇子・大友皇子(第39代・弘文天皇)が皇位を争った672年(天武天皇元年)の壬申の乱(じんしんのらん)の際、近江を脱出して父・天武天皇に伊勢国で合流したことから父・天武天皇は大いに喜び、吉野宮で誓盟に参加したと言われています。681年(天武天皇10年)に異母兄で、父・天武天皇と鵜野讃良皇后(第41代・持統天皇)の第2皇子・草壁皇子が皇太子になると683年(天武天皇12年)に21歳で朝廷の政治に参与しました。686年(朱鳥元年)9月に父・天武天皇が崩御すると同年10月2日に親友で、第38代・天智天皇の第2皇子・川島皇子(かわしまのみこ)の密告によって謀反の嫌疑で捕えられ、翌10月3日に24歳で磐余(いわれ)にある訳語田(おさだ)の自邸で自害しました。妃で、第38代・天智天皇の皇女・山辺皇女(やまのべのひめみこ)も殉死しました。大津皇子は新羅の僧・行心らにそそのかされて謀反を企てたとも言われています。また鵜野讃良皇后(第41代・持統天皇)の意向があったとも言われています。なお大津皇子は「ももづたふ 磐余(いわれ)の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ」と辞世の和歌を詠んだとも言われ、奈良県葛城市染野の二上山雄岳山頂付近にある二上山墓に弔われています。
薬師寺見どころ

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