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薬師寺休ヶ岡八幡宮・薬師寺見どころ(修学旅行・観光)
●薬師寺休ヶ岡八幡宮は1935年(昭和10年)5月3日に国の重要文化財に指定されました。
●薬師寺休ヶ岡八幡宮は平安時代前期の寛平年間(889年~898年)に薬師寺別当・栄紹大法師(えいしょうだいほうし)が大分県宇佐(うさ)から勧請しました。その後天災・人災によって破壊・焼失し、現在の社殿は江戸時代初期の1603年(慶長8年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の子・豊臣秀吉(とよとみひでより)の寄進によって再建されました。
宇佐神宮は社伝によると571年(第29代・欽明天皇32年)に祭神・八幡大神(はちまんおおかみ)=第15代・応神天皇の神霊が初めて宇佐の地に示顕(じげん)になり、725年(神亀2年)に社殿(一之御殿)を造営して、八幡大神(応神天皇)を祀ったのが始まりとも言われています。宇佐郡厩峯(まきのみね)と菱形池(ひしがたいけ)の間に鍛冶翁(かじおう)が降り立ち、大神比義(おおがのひき)が祈ると三才童児となり、「われは誉田の天皇広幡八幡麿(ほんだのすめらみことひろはたのやはたまろ)なり。わが名は護国霊験威力神通大自在王菩薩(ごこくれいげんいりょくじんつうだいじざいおうぼさつ)で、神道として垂迹(すいじゃく)せし者なり」と託宣(たくせん)があったとも言われています。
豊臣秀頼は安土桃山時代の1593年(文禄2年)8月29日に関白・豊臣秀吉と側室・淀殿(よどどの・浅井茶々(あざいちゃちゃ))の間の第2子として大坂城で生まれました。豊臣秀頼は豊臣秀吉57歳の時の子で、健康な成長を願って、一旦捨てた形にして家臣・松浦重政(まつうらしげまさ)が拾い上げました。豊臣秀頼は幼名は拾丸(ひろいまる)で、乳母は宮内卿局(くないきょうのつぼね)・右京大夫局(うきょうのだいぶのつぼね)・正栄尼(しょうえいに)でした。豊臣秀吉は豊臣秀頼誕生直後に関白・豊臣秀次(とよとみひでつぐ)の娘と婚約させようとしたが、1595年(文禄4年)に豊臣秀次の関白職を奪って自刃させ、豊臣秀頼の継嗣としての地位を確定させました。豊臣秀頼は豊臣秀吉とともに伏見城に住んでいたが、1598年(慶長3年)8月に豊臣秀吉が死去すると豊臣秀頼は家督を継ぎ、豊臣秀吉の遺命によって大坂城に移り住みました。豊臣秀頼は1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い後に摂津・河内・和泉を知行する一大名になったが、1603年(慶長8年)に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)の孫、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)の子・千姫(せんひめ)と結婚しました。しかし1614年(慶長19年)の方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)によって大坂の陣が勃発し、1615年(慶長20年)6月4日に秀頼は淀殿らとともに自害しました。なお豊臣秀頼は多くの神社仏閣に寄進したり、再建などに尽力したりしています。
●薬師寺休ヶ岡八幡宮は本殿が三間社流造の檜皮葺、東脇殿・西脇殿はそれぞれ桁行三間・梁間一間で、切妻造の檜皮葺です。薬師寺休ヶ岡八幡宮ではいずれも国宝である僧形八幡神(そうぎょうはちまんしん)・神功皇后(じんぐうこうごう・応神天皇の母)・仲津姫命(なかつひめのみこと・応神天皇の皇后)の三神像(なかつひめのみこと)を祀っていました。
八幡神は第15代・応神天皇(誉田別命(ほんだわけのみこと))の神霊で、571年(第29代・欽明天皇32年)に初めて宇佐の地に示顕したとも言われています。八幡神は神仏習合により、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)とも言われています。八幡神は比売神(ひめがみ)・第15代・応神天皇の母である神功皇后を合わせて、八幡三神とも言われています。なお八幡神は第15代・応神天皇の神霊とされたことから皇祖神としても位置づけられています。
流造は神社建築の一形式です。流造は正面入口にあたる屋根の一方(前流れ)が長く延びた形式です。流造は伊勢神宮(いせじんぐう)に代表される神明造(しんめいづくり)から発展し、奈良時代末期から平安時代に成立し、全国に広がりました。流造では上賀茂神社(かみがもじんじゃ)・下鴨神社(しもがもじんじゃ)がよく知られています。流造では正面(桁行)の柱間が1間(柱2本)の場合には一間社流造、3間(柱4本)の場合には三間社流造、5間(柱6本)の場合には五間社流造になります。
薬師寺見どころ