元興寺禅室・元興寺見どころ(修学旅行・観光)

元興寺禅室

●元興寺禅室は1906年(明治39年)4月14日に国の重要文化財、1953年(昭和28年)3月31日に国宝に指定されました。
●元興寺禅室は本堂とともに元々奈良時代に建立された僧坊(僧侶の宿舎)だったが、鎌倉時代の1244年(寛元2年)に僧坊の西側四房(室)分が禅室、東側三房(室)分が本堂に改築されました。元興寺禅室には奈良時代の部材が使われています。2000年(平成12年)の元興寺文化財研究所の発表によると古墳時代の582年(敏達天皇11年)に伐採の樹木が使われていることが分かったそうです。元興寺禅室は中世に春日影向堂とも言われ、近世に客殿、近代に学校舎として使用されました。
元興寺禅室では南西一間が影向間(ようごうのま)と言われています。影向間は宝庫のように使われて智光曼荼羅が経蔵に収められ、「元興寺別院極楽坊縁起」によると真言宗(しんごんしゅう)の宗祖である弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)が毎日経蔵で勉強をし、智光曼荼羅を拝んでいると春日大明神(かすがだいみょうじ)が影向(ようごう)されたことに気付き、春日曼荼羅を描いて勧請(かんじょう)したと言われています。また弘法大師・空海はその影(姿)を自ら刻んで部屋に留めたことから影向間と言われるようになりました。
弘法大師・空海は奈良時代の774年(宝亀5年)に讃岐国多度郡屏風浦(香川県善通寺市)で父・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)と母・阿刀大足(あとのおおたり)の妹の間に生まれました。ただ正確な誕生日は明確ではありません。真言宗では空海が唐の高僧で、三蔵法師(さんぞうほうし)の一人である不空三蔵(不空金剛・ふくうこんごう)の生まれ変わりと考えられていることから誕生日は不空三蔵の入滅の日である6月15日とされています。空海は讃岐から15歳で都に上京し、804年(延暦23年)に遣唐使として唐に渡り、真言密教を日本に伝えて真言宗の開祖になったり、日本最初の私立学校・綜芸種智院を創立したりしました。その後空海は835年(承和2年)3月21日に高野山で亡くなりました。
一般的に僧坊は寺院で僧侶が止住し、起居する堂塔です。古代の寺院では講堂を取り囲むように東室(ひがしむろ)・北室(きたむろ)・西室(にしむろ)の3棟の僧坊が建立され、三面僧坊(さんめんそうぼう)と言われました。なお僧坊は金堂・塔・講堂・鐘楼・経蔵・食堂とともに七堂伽藍に数えられました。
●元興寺本堂は桁行四間・梁間四間で、切妻造(きりづまづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。
切妻造は屋根の最頂部の棟(むね)から両側に葺き下ろし、その両端を棟と直角に切った屋根の形式です。切妻造は本を開いて伏せたような形で、平行な面を平(ひら)、棟と直角な面を妻(つま)と言います。切妻造は古くは真屋(まや)とも言われ、伊勢神宮(いせじんぐう)・出雲大社(いづもたいしゃ)などの社殿に採用されています。ちなみに四方向に傾斜する屋根面を持つ寄棟造(よせむねづくり)よりも格式が上とも言われています。なお切妻造は世界各地で見られる屋根の形式です。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
元興寺見どころ

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