長谷寺本堂・長谷寺見どころ

●長谷寺本堂は1913年(大正2年)4月14日に国の重要文化財、2004年(平成16年)12月10日に国宝に指定されました。
●長谷寺本堂は1645年(正保2年)に江戸幕府3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)の寄進によって再建が開始され、1650年(慶安3年)に落慶しました。棟札によると大工は中井大和守を中心とする大工集団が担当しました。長谷寺本堂は奈良時代に建立されたが、戦国時代(室町時代後期)の1536年(天文5年)までに7回焼失し、安土桃山時代に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の異父弟で、郡山城城主・豊臣秀長(とよとみひでなが)が再建を開始し、1588年(天正16年)に完成しました。しかし1618年(元和4年)に雨漏りの記録が残されています。なお長谷寺本堂は小初瀬山中腹の断崖絶壁に建立された懸造(かけづくり・舞台造)です。
徳川家光は1604年(慶長9年)8月12日に江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)と浅井長政(あざいながまさ)の娘・江(ごう・崇源院(すうげんいん))の次男として江戸城西の丸に生まれました。徳川家光の幼名は江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)と同じ竹千代、乳母は春日局(かすがのつぼね)です。徳川家光は病弱で、吃音(きつおん)があり、1606年(慶長11年)に徳川秀忠と江に寵愛される弟・徳川忠長(とくがわただなが)が生まれると世継ぎ争いが起こり、元和年間(1615年~1624年)に春日局による徳川家康への直訴によって徳川家光が世継ぎに決着しました。1620年(元和6年)に元服し、名前を徳川家光に改め、従三位権大納言に任命されました。1623年(元和9年)7月27日に徳川秀忠とともに上洛して伏見城で将軍宣下を受け、江戸幕府3代将軍になり、正二位内大臣に任命されました。徳川家光は武家諸法度(ぶけしょはっと)・参勤交代制(さんきんこうたいせい)などの諸制度を整備したり、キリシタン禁制や貿易統制の為に鎖国を行ったりし、江戸幕府の基礎を確立しました。なお徳川家光は多くの神社仏閣に寄進したり、再建などに尽力したりしています。
一般的に本堂は本尊仏を安置する仏堂です。本堂は金堂・根本中堂(中堂)・仏殿などとも言われています。飛鳥時代から平安時代前半に創建された寺院では金堂と言われ、禅宗では仏殿と言われるとこが多いそうです。
懸造は崖などの高低差が大きい場所に仏堂などを建立する建築様式です。懸造は舞台造・崖造などとも言われています。懸造は平安時代中期には既に行われていたとも言われています。観音霊場では岩を観音菩薩(かんのんぼさつ)の降臨する霊場・補陀落山(ふだらくせん)に見立てていたとも言われています。
●長谷寺本堂には本尊・木造十一面観音立像(重要文化財)に安置されています。木造十一面観音立像は本堂とともに7度焼失し、現在8代目の木造十一面観音立像は1536年(天文5年)に造仏されました。
十一面観音立像には奈良時代の神亀年間(724年~728年)に初瀬川(はせがわ)に流れ着き、祟りの原因になった巨大な神木を村人の懇願により、長谷寺開基・徳道(とくどう)が稽文会(けいもんえ)・稽主勲(けいしゅくん)に2丈6尺の十一面観音立像に造仏させたという伝承が残されているそうです。
長谷寺見どころ

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