法華寺本堂・法華寺見どころ(修学旅行・観光)

法華寺本堂

●法華寺本堂は1901年(明治34年)3月27日に国の重要文化財に指定されました。
●法華寺本堂は安土桃山時代(江戸時代初期)の1601年(慶長6年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の側室で、豊臣秀頼の生母・淀殿(よどどの)の寄進によって再建されました。高欄の擬宝珠(ぎぼし)に「1601年(慶長6年)」の銘があり、本堂はかつて講堂と言われていたそうです。本堂には天平時代(奈良時代)・鎌倉時代などの古材が一部転用されています。古材はかつて鎌倉時代に建立された金堂、室町時代に建立された講堂に使用されていたが、1596年(文禄5年)の慶長伏見地震によって倒壊し、本堂に転用されたとも言われています。本堂は曲線を描く屋根・左右の連子窓(れんじまど)などが天平建築、組物・彫刻や須弥壇(しゅみだん)の金具飾りなどが桃山建築の特徴を表しています。1983年(昭和58年)に東大寺大仏殿と同じように正面に八角灯籠1基が建立されました。本堂には厨子に本尊・十一面観音像(国宝)を安置しています。なお本堂では毎年4月に本尊・十一面観音像前に55体の善財童子像を並べ、ひな会式(えしき)が行われています。
淀殿(淀君)は戦国時代(室町時代後期)の1569年(永禄12年)に北近江の戦国大名で、浅井氏3代目・浅井長政(あざいながまさ)と織田信長の妹・市(いち)の長女・浅井茶々(あざいちゃちゃ)として近江国小谷(滋賀県長浜市)に生まれました。1570年(元亀元年)に伯父・信長が朝倉への不戦の誓いを破り、朝倉氏を攻撃すると父・長政は同盟を破棄し、織田・徳川連合軍を背後から急襲しました。1573年(天正元年)に伯父・信長が父・長政の居城・小谷城を攻撃すると母・市と妹の初(はつ)・江(ごう)とともに救出されました。伯父・信長が自刃した1582年(天正10年)の本能寺の変(ほんのうじのへん)後に母・市が柴田勝家(しばたかついえ)と再婚し、1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)で義父・勝家が関白・豊臣秀吉に敗れ、母・市とともに自害したが、淀殿と2人の妹は秀吉に保護されました。1588年(天正16年)頃に秀吉の側室になり、1589年(天正17年)に捨(鶴松)を生んだが、1591年(天正19年)に捨が亡くなりました。1593年(文禄2年)に拾(豊臣秀頼)を生み、1598年(慶長3年)に秀吉が亡くなりました。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)で江戸幕府初代将軍・徳川家康が勝利し、その後将軍に就任すると江戸幕府と対立するようになり、1615年(慶長20年)の大坂夏の陣で大坂城が落城し、子・秀頼や大野治長(おおのはるなが)らととともに自害しました。
十一面観音像は頭部に11の顔を持つ菩薩です。十一面観音像は前3面は慈悲相(柔和相)、左3面は忿怒相(憤怒相)、右3面は白牙上出相、後1面は大笑相、頂上1面は仏果を表わしています。十一面観音像は観音菩薩の変化身の一つで、六観音の一尊です。六観音は十一面観音・千手観音・聖観音・馬頭観音・如意輪観音・准胝観音または不空羂索観音です。十一面観音像は唐代以降の中国で盛んに信仰され、奈良時代(710年~794年)から日本で信仰を集めました。
●法華寺本堂は桁行七間・梁間四間で、寄棟造(よせむねづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。
寄棟造は四方向に傾斜する屋根面を持つ屋根の形式です。寄棟造は大棟(おおむね)の両端から四方に隅棟(すみむね)が降り、2つの台形と2つの二等辺三角形で構成されます。いずれも奈良県の東大寺の大仏殿や正倉院(しょうそういん)・唐招提寺(とうしょうだいじ)の金堂が代表例です。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。

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