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春日大社本殿・春日大社見どころ(修学旅行・観光)
●春日大社本殿は1901年(明治34年)8月2日に国の重要文化財、1956年(昭和31年)6月28日に国宝に指定されました。
●春日大社本殿は鎌倉時代初期に記された現存最古の由緒記「古社記」によると奈良時代の768年(神護景雲2年)11月9日に第48代・称徳天皇(第46代・孝謙天皇)の勅命により、左大臣・藤原永手(ふじわらのながて)らが建立したとも言われています。現在の本殿は江戸時代末期の1863年(文久3年)の式年造替(しきねんぞうたい)によって建立されました。ただ古い形式が維持されているとも言われているそうです。
第48代・称徳天皇(第46代・孝謙天皇)は718年(養老2年)に第45代・聖武天皇と藤原氏出身で史上初めて人臣から皇后になった光明皇后(光明子)の間に阿倍内親王(あべないしんのう)として生まれました。第45代・聖武天皇と光明皇后の間には基王(もといおう・基皇子(もといのみこ))が生まれたが、早世しました。また第45代・聖武天皇と県犬養広刀自(あがたのいぬかいのひろとじ)の間には安積親王(あさかしんのう)が生まれたが、後ろ盾を持たなかったことから阿倍内親王が738年(天平10年)に立太子し、史上唯一の女性皇太子になりました。744年(天平17年)に安積親王が亡くなり、749年(天平勝宝元年)に父で、第45代・聖武天皇の譲位によって即位し、第46代・孝謙天皇になりました。758年(天平宝字2年)に病気の母・光明皇太后に仕える為に大炊王(第47代・淳仁天皇)に譲位して太上天皇(孝謙上皇)になり、その後弓削道鏡(ゆげのどうきょう)を寵愛するようになり、孝謙上皇・弓削道鏡と対立した藤原仲麻呂の乱(ふじわらのなかまろのらん・恵美押勝の乱(えみのおしかつのらん))が起こると第47代・淳仁天皇が廃帝(はいたい)とされ、第48代・称徳天皇になりました。その後弓削道鏡が皇位に就くべしという宇佐八幡宮神託事件(うさはちまんぐうしんたくじけん・道鏡事件)が起こりました。なお第48代・称徳天皇は770年(神護景雲4年)8月28日に崩御しました。
春日大社の式年造替は768年(神護景雲2年)からほぼ20年に1度行われ、本殿の建て替えと御神宝(ごしんぽう)の新調が行われてきました。2015年(平成27年)から2016年(平成28年)に行われた式年造替は第60次式年造替になります。
●春日大社本殿は第1殿・第2殿・第3殿・第4殿から構成され、屋根が妻入の切妻造(きりづまづくり)で、曲線を描いて反り、正面に片流れの庇(ひさし)・向拝(こうはい)が付けられ、春日造(かすがづくり)と言われています。
春日造は切妻造(きりづまづくり)の妻入(つまいり)で、正面に庇(ひさし)である階隠(はしかくし)を設け、屋根上(棟)に置き千木(ちぎ)・鰹木(かつおぎ)が付けられています。春日造は仏教建築の影響を受け、奈良時代中期に現れたとも言われています。春日造は奈良市の円成寺(えんじょうじ)の春日堂(国宝)・白山堂(国宝)が最古の例になります。ちなみに春日堂・白山堂は鎌倉時代の1228年(安貞2年)に春日大社の本殿を移築したものと言われています。
切妻造は屋根の最頂部の棟(むね)から両側に葺き下ろし、その両端を棟と直角に切った屋根の形式です。切妻造は本を開いて伏せたような形で、平行な面を平(ひら)、棟と直角な面を妻(つま)と言います。切妻造は古くは真屋(まや)とも言われ、伊勢神宮(いせじんぐう)・出雲大社(いづもたいしゃ)などの社殿に採用されています。ちなみに四方向に傾斜する屋根面を持つ寄棟造(よせむねづくり)よりも格式が上とも言われています。なお切妻造は世界各地で見られる屋根の形式です。
春日大社見どころ