春日大社桂昌殿・春日大社見どころ(修学旅行・観光)

春日大社桂昌殿

●春日大社桂昌殿は奈良市の指定文化財(建造物)です。
●春日大社桂昌殿は江戸時代中期の1699年(元禄12年)に江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院が「天下泰平之御祈祷(てんかたいへいのごきとう)」の為に寄進した祈祷所です。桂昌院は徳川綱吉とともに筑波山知足院の住職で、護持僧(ごじそう)・隆光(りゅうこう)に帰依し、隆光の意向があったとも言われています。なお桂昌殿はかつて神職のお籠りにも使用されていました。
桂昌院は1627年(寛永4年)に京都西陣(にしじん)の八百屋・仁右衛門(にえもん)の次女として京都大徳寺付近で生まれたとも言われています。その後関白で、二条家17代当主・二条光平(にじょうみつひら)の家司(けいし)・本庄宗正(ほんじょうむねまさ)の養女になったと言われています。江戸幕府第3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)の側室・六条有純(ろくじょうありずみ)の娘・永光院(えいこういん・お万の方)のゆかりで江戸に下り、1639年(寛永16年)に部屋子として永光院(お万の方)に仕え、その後徳川家光の乳母・春日局(かすがのつぼね)の目にとまり、局の指導を受けました。将軍付きの御中臈(おちゅうろう)になり、徳川家光に見初められて側室になり、1646年(正保3年)1月に江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉(とくがわつなよし)となる徳川家光の四男・徳松(とくまつ)を生みました。ちなみに桂昌院は京都西陣の八百屋の娘から徳川家光の側室になり、徳川綱吉を生んだことから「玉の輿(たまのこし)」の由来になったとも言われています。1651年(慶安4年)に徳川家光が亡くなると落飾して筑波山知足院(ちそくいん)に入り、1680年(延宝8年)に江戸幕府第4代将軍・徳川家綱(とくがわいえつな)が亡くなり、息子・徳川綱吉が江戸幕府第5代将軍になると江戸城三の丸に入りました。1684年(貞享元年)に従三位なり、1702年(元禄15年)に女性最高位の従一位になり、名前・藤原光子(藤原宗子)を賜りました。桂昌院は深く仏教に帰依(きえ)し、寺院を建立したり、寄進したりしました。また生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい)の起因になったとも言われています。なお桂昌院は1705年(宝永2年)8月11日に79歳で亡くなりました。
●春日大社桂昌殿は桁行5間・梁間2間で、入母屋造(いりもやづくり)のこけら葺(こけらぶき)です。桂昌殿は向拝1間で、背面1間通り庇付です。桂昌殿は全体に住宅風の落ち着いた意匠で、祭壇と両脇の控間から構成されています。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
こけら葺は木材の薄板を使って屋根を葺く方法です。こけら葺は板葺(いたぶき)の一種です。板葺では板厚が2~3ミリの場合にこけら葺、板厚が4~7ミリの場合に木賊葺(とくさぶき)、板厚が1~3センチの場合に栩葺(とちぶき)と言われています。板葺にはヒノキ・サワラ・スギ・エノキ・トクサ・クヌギなどが用いられます。板葺は古墳時代から屋根に用いられるようになったとも言われ、茅葺(かやぶき)に次いで古いとも言われています。飛鳥時代(593年~709年)に建立された法隆寺(ほうりゅうじ)の五重塔(国宝)の屋根にも用いられています。
春日大社見どころ

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