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春日大社紀伊神社・春日大社見どころ(修学旅行・観光)
春日大社紀伊神社
●春日大社紀伊神社は春日大社境内に祀られている摂社・末社の内、最南端に祀られているとも言われ、かつて春日大社の奥の院とも言われていました。紀伊神社は五十猛命(いたけるのみこと)・大屋津姫命(おおやつひめのみこと)・抓津姫命(つまつひめのみこと)を祀り、新たな生気を授けるご神徳があるとも言われています。主祭神・五十猛命は天照大神の弟神・素盞鳴命(すさのおのみこと)の子神で、紀伊の国へ樹木の種をもたらした樹神とされています。なお紀伊神社近くには二つに割れた大石・伊勢遥拝石があります。伊勢遥拝石では二つに割れた大石の間に向くと伊勢神宮の方角にあたり、遥かに伊勢参りすることができます。ちなみに近くには龍王珠石(りゅうおうじゅせき)もあります。
五十猛命は日本最古の正史「日本書紀(にほんしょき)・720年(養老4年)完成」によると素盞鳴命の子神とされています。五十猛命は木種(こだね)を持って天降り、大八洲国(おおやしまぐに)をことごとく青山にしたと言われています。また五十猛命は父神・素盞鳴命とともに新羅(しらぎ)に渡り、その後樹種を持って出雲に移住し、全国に植林したと言われています。ちなみに五十猛命は和歌山市伊太祈曾の伊太祁曾神社(いたきそじんじゃ)に祀られています。なお日本最古の歴史書「古事記(こじき)・712年(和銅5年)編纂」に記されている大屋毘古命(おおやびこのみこと)と同一神ともされています。
伊勢神宮は紀元前73年(垂仁天皇25年)3月に天照大御神が内宮に祀られたのが起源とも言われています。天照大御神は皇孫・瓊瓊杵尊以来、天皇の側で祀られていたが、第10代・崇神天皇の御代に御殿をともにすることに恐れを抱いた崇神天皇が皇居外に祀ることを決意され、紀元前92年(崇神天皇6年)に初代斎宮で、皇女・豊鍬入姫命が奈良大和の笠縫邑に神籬を立てて祀っていました。その後豊鍬入姫命と交代した皇女・倭姫命が永遠に神事を続けることができる場所を求め、大和から伊賀・近江・美濃などのを巡って伊勢に入り、天照大御神が「この神風の伊勢の国は、遠く常世から波が幾重にもよせては帰る国である。都から離れた傍国ではなるが、美しい国である。この国にいようと思う」と言われたことから五十鈴川の川上に宮を建てて祀りました。
●春日大社紀伊神社は流造(ながれづくり)の檜皮葺(ひわだぶき)です。
流造は神社建築の一形式です。流造は正面入口にあたる屋根の一方(前流れ)が長く延びた形式です。流造は伊勢神宮(いせじんぐう)に代表される神明造(しんめいづくり)から発展し、奈良時代末期から平安時代に成立し、全国に広がりました。流造では上賀茂神社(かみがもじんじゃ)・下鴨神社(しもがもじんじゃ)がよく知られています。流造では正面(桁行)の柱間が1間(柱2本)の場合には一間社流造、3間(柱4本)の場合には三間社流造、5間(柱6本)の場合には五間社流造になります。
檜皮葺は屋根葺手法の一形式です。檜皮葺では檜(ひのき)の樹皮を用いて屋根を葺きます。檜皮葺は日本以外では見られない日本古来の手法です。檜皮葺は飛鳥時代の668年(天智天皇7年)に滋賀県大津市の廃寺・崇福寺(すうふくじ)の諸堂が檜皮で葺かれた記録が最古の記録です。
春日大社見どころ