春日大社燈籠・春日大社見どころ(修学旅行)

春日大社燈籠

●春日大社燈籠は石燈籠が約2,000基、釣燈籠が約1,000基、合計約3,000基あります。燈籠の中には日本国内で2番目に古い石灯籠とも言われている関白・藤原忠通(ふじわらのただみち)奉納の「柚木(ゆのき)型石燈籠(1136年)」や藤原頼通(ふじわらのよりみち)寄進とも言われている「瑠璃(るり)燈籠(1038年)」などがあります。室町時代末期(戦国時代)から江戸時代に一般庶民や春日講中から奉納されたものも多数あります。
藤原忠通は平安時代後期の1097年(承徳元年)3月15日に関白・藤原忠実(ふじわらのただざね)と源顕房の娘・源師子(みなもとのしし)の次男として生まれました。1103年(康和5年)に公卿・歌人である大江匡房(おおえのまさふさ)によって「忠通」と名付けられました。1107年(嘉承2年)に元服して白河法皇(第72代・白河天皇)の猶子になり、1114年(永久2年)に白河法皇の意向により、白河法皇の養女・藤原璋子(ふじわらのしょうし)との縁談が持ち上がるが、父・藤原忠実が藤原璋子の素行に関わる噂から縁談を固辞しました。1120年(保安元年)の白河法皇による保安元年の政変(ほあんがんねんのせいへん)により、父・藤原忠実が関白を辞任し、その代わりに藤原氏長者になり、翌1121年(保安2年)に25歳で第74代・鳥羽天皇の関白になりました。その後も第75代・崇徳天皇、第76代・近衛天皇、第77代・後白河天皇の3代に渡って摂政・関白を務めました。1129年(大治4年)に娘・藤原聖子(ふじわらのせいし)を第75代・崇徳天皇の後宮に女御として入内させ、翌1130年(大治5年)に中宮になりました。その後父・藤原忠実と父が寵愛する弟・藤原頼長(ふじわらのよりなが)と対立し、1150年(久安6年)に弟・藤原頼長に藤原氏長者の地位を奪われました。1156年(保元元年)の保元の乱後に再び藤原氏長者になり、1158年(保元3年)に第77代・後白河天皇から処分を受け、嫡男・近衞基実(このえもとざね)に関白の地位を譲って政界から引退し、1162年(応保2年)に法性寺別業で出家しました。なお藤原忠通は1164年(長寛2年)3月13日に亡くなりました。
藤原頼通は平安時代中期の992年(正暦3年)正月に摂政太政大臣・藤原道長(ふじわらのみちなが)と左大臣・源雅信(みなもとのまさざね)の娘で、正室・源倫子(みなもとのりんし)の長男として生まれました。998年(長徳4年)に清涼殿(せいりょうでん)の殿上の間に出入りを許された童殿上(てんじょうわらわ)になり、1003年(長保5年)に12歳で元服して正五位下に叙され、1006年(寛弘3年)に15歳で従三位に叙され、太政官の最高幹部として国政を担う公卿(くぎょう)に列し、1013年(長和2年)に権大納言(だいなごん)に任ぜられました。1016年(長和5年)に第67代・三条天皇が敦成親王(第68代・後一条天皇)に譲位すると父・藤原道長が外祖父として摂政になり、翌1017年(長和6年)に内大臣になるとともに父・藤原道長に代わって摂政になり、藤原氏長者にもなりました。1019年(寛仁3年)に関白になったが、父・藤原道長が実権を握っていたことから政務の不手際から勘当になったこともありました。1021年(治安元年)に左大臣になり、1061年(康平4年)に70歳で太政大臣になりました。藤原頼通は第68代・後一条天皇、第69代・後朱雀天皇、第70代・後冷泉天皇の3代にわたって摂政・関白になり、父・藤原道長とともに藤原氏による摂関政治の全盛期を築きました。ただ第70代・後冷泉天皇の皇后となった娘・藤原寛子(ふじわらのかんし)に皇子がなくて外祖父になれず、第71代・後三条天皇が即位すると藤原氏の権勢は徐々に衰えていきます。なお藤原頼通は1074年(延久6年)3月2日に亡くなりました。
春日大社見どころ

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