喜光寺本堂・喜光寺見どころ(修学旅行・観光)

喜光寺本堂

●喜光寺本堂は1901年(明治34年)3月27日に国の重要文化財に指定されました。
●喜光寺本堂は室町時代前期(1333年~1392年)に再建されたとも言われています。また本堂は室町時代後期の1499年(明応8年)に焼失し、1544年(天文13年)に縮小して再建されたとも言われています。本堂(金堂)はかつて奈良時代前期に行基菩薩が東大寺の大仏殿建立に先だって建立したという伝承から「試みの大仏殿」と言われています。「試みの大仏殿」は江戸時代に言われるようになったとも言われています。ちなみに行基菩薩は第45代・聖武天皇から東大寺の盧舎那仏像(とうだいじるしゃなぶつぞう)造立の実質上の責任者として招聘されました。盧舎那仏像は743年(天平15年)に第45代・聖武天皇が発願し、745年(天平17年)から鋳造が開始され、752年(天平勝宝4年)に開眼供養会行われました。盧舎那仏像の完成後に大仏殿の建立が開始され、758年(天平宝字2年)に完成しました。なお本堂は本尊・阿弥陀如来(あみだにょらい)坐像や観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)・勢至菩薩(せいしぼさつ)を安置しています。
行基は飛鳥時代後期の668年(天智天皇7年)に父・高志才智(こしのさいち)と母・蜂田古爾比売(はちたのこにひめ)の長子として生まれました。682年(天武11年)に15歳で大官大寺(だいかんだいじ・大安寺(だいあんじ))で出家し、691年(持統天皇5年)に高宮寺(こうぐうじ)の徳光禅師(とくこうぜんじ)を戒師(かいし)として受戒しました。飛鳥寺(あすかでら・法興寺(ほうこうじ))・薬師寺(やくしじ)で法相宗(ほっそうしゅう)初伝の道昭(どうしょう)や法相宗の祖・義淵(ぎえん)らに法相宗を学びました。704年(大宝4年)に生家を家原寺(えばらじ)に改め、705年(慶雲2年)に母親とともに大和の佐紀堂(さきどう)に移り、707年(慶雲4年)に母親とともに生駒山の草野仙房(かやのせんぼう)に母親に移り、母親が亡くなると3年間喪に服しました。740年(天平12年)に第45代・聖武天皇(しょうむてんのう)から依頼されて大仏造立に協力し、743年(天平15年)に大仏造立の勧進に起用されました。しかし大仏造立中の749年(天平21年)に菅原寺(すがわらでら・喜光寺(きこうじ))で81歳で亡くなりました。行基は民衆に仏法の教えを説き、寺院や道場を創建するだけでなく、困窮者の為に布施屋(ふせや)の設立などの社会事業も行いました。行基集団は道場・寺院を49院、溜池15窪、溝・堀9筋、架橋6所を整備したとも言われています。なお行基は738年(天平10年)に朝廷から行基大徳の称号が授与され、745年(天平17年)に日本初の大僧正位を授与されました。
●喜光寺本堂は桁行三間・梁間二間で、寄棟造(よせむねづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。本堂は高さ約17.1メートルで、一重もこし(裳階)付です。南側一間は吹き通しにしなっており、上層は四方に連子窓が設けられて光を取り込むようになっています。春季・秋季の夕暮れには西側の窓から夕陽が差し込んで本尊を照らします。
寄棟造は四方向に傾斜する屋根面を持つ屋根の形式です。寄棟造は大棟(おおむね)の両端から四方に隅棟(すみむね)が降り、2つの台形と2つの二等辺三角形で構成されます。いずれも奈良県の東大寺の大仏殿や正倉院(しょうそういん)・唐招提寺(とうしょうだいじ)の金堂が代表例です。
本瓦葺は平瓦と丸瓦を交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。
裳階は仏堂などの本来の屋根の下に付けた差し掛けの屋根です。屋根が二重になるので2階建てと間違われたりします。いずれも奈良県の東大寺の大仏殿や法隆寺(ほうりゅうじ)金堂と五重塔・薬師寺(やくしじ)の東塔が代表例です。なお裳階は雨打 (ゆた) ・雪打 (ゆた) とも言われています。
喜光寺(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)

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