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興福寺般若の芝・興福寺見どころ(修学旅行・観光)
興福寺般若の芝
●興福寺般若の芝(般若之芝)は南大門跡にあります。般若の芝では例年5月の第3金曜日・土曜日に薪御能(たきぎおのう)南大門の儀が行なわれます。薪御能では金春流・大蔵流・金剛流・観世流・宝生流が奉仕します。なお春日大社では薪御能咒師走りの儀(しゅしはしりのぎ)と御社上りの儀(ごしゃのぼりのぎ))が行われます。なお薪御能は篝火が焚かれる中、演じられる薪能の起源になったと言われています。
薪御能は平安時代中期に興福寺で行われていた修二会(しゅにえ)の舞楽が起源と言われています。修二会は1月(正月)に行われる修正会 (しゅしょうえ) と同様に昨年を反省し、新年の国家安泰・天下泰平・万民豊楽・五穀豊穣などを祈願します。修二会は2月に行われることに由来しています。なお修二会は中国のから伝わり、奈良時代には南都七大寺で盛んに行われるようになったと言われています。
金春流は飛鳥時代の秦河勝(はたのかわかつ)を遠祖、春日大社・興福寺に仕えた猿楽・円満井座(えんまんい)を起源とし、金春三郎豊氏(こんぱるさぶろうとようじ)が流祖です。金春流はシテ方の五流(観世流・金剛流・宝生流・喜多流)の内、最古の流派と言われています。
大蔵流は天台宗(てんだいしゅう)の学僧・玄恵法印(げんえほういん)を流祖とし、室町時代後期に金春座(こんぱるざ)で狂言を務めていた大蔵弥右衛門(おおくらやえもん)が起こした狂言の流派です。なお大蔵流は奈良の興福寺・春日大社などで奉仕した大和猿楽(やまとさるがく)系の狂言を伝える唯一の流派とも言われています。
金剛流は法隆寺(ほうりゅうじ)に仕えた猿楽座・坂戸座(さかとざ)を起源とし、坂戸孫太郎氏勝(さかとまごたろううじかつ)が流祖です。金剛流6世・善岳正明以後、金剛と称するようになりました。なお金剛流は京都風の華麗な芸風から舞金剛、面などの名品を多く所蔵することから面金剛とも言われています。
観世流は大和猿楽・結崎座(ゆうざきざ)を起源とし、観阿弥清次(かんあみきよつぐ)が流祖です。観世流の名称は流祖・観阿弥の幼名・観世丸に由来しています。なお観世流は江戸時代に四座一流の筆頭とされ、現在もシテ方の五流(観世流・金剛流・宝生流・金春流・喜多流)の最大流派です。
宝生流は談山神社(たんざんじんじゃ・多武峰寺(とうのみね))に属した大和猿楽・外山座(とびざ)を起源とし、世阿弥の弟・宝生蓮阿弥(ほうしょう れんあみ)を流祖としています。外山座は看板役者・宝生太夫の名を取って宝生座とも言われました。宝生流は観世流とともに上掛り(かみがかり)といわれました。
興福寺南大門は奈良時代初期の710年(和銅3年)の平城京遷都とともに建立されたとも言われ、その後7度焼失し、江戸時代中期の1717年(享保2年)の焼失後に再建されることはありませんでした。2009年(平成21年)に奈良文化財研究所による発掘調査が行われ、翌2010年(平成22年)から復元整備が進められました。なお復元された基壇は高さ約1.5メートル・東西30.8メートル・南北16.6メートルで、出土した遺構の上面に厚さ約50センチの土を盛って保護しています。
一般的に南大門は寺院などで南に面した正門で、中心的な建物に通じる門です。中国では都城や寺院などの建物が南側に面して建てられていることに由来しています。南大門は北・東・西の門よりも大きくなっています。
興福寺見どころ