興福寺摩利支天石・興福寺見どころ(修学旅行)

興福寺摩利支天石

●興福寺摩利支天石は三重塔(重要文化財)東側に祀られています。摩利支天石はかつて宝蔵院流槍術を創始した宝蔵院覚禅房法印胤栄(ほうぞういんかくぜんぼうほういんいんえい)が院主を勤めていた宝蔵院(現・国立奈良博物館)に祀られていました。胤栄は大石(摩利支天石)に摩利支天を祀り、武道の上達と槍術成就を祈念し、稽古に励んでいました。しかし明治維新後の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって荒廃し、上知令によって敷地が国に没収されたことから摩利支天石は廃墟と化した宝蔵院跡に取り残されていました。その後1887年(明治20)漢方医であった奈良市高畑菩提町・石崎勝蔵が自宅に移して供養し、医業の守り神として祀りました。ちなみに摩利支天石は動かせば、祟るとまで言い伝えられていたそうです。1999年(平成11年)5月31日に三重塔前に移されて祀られました。
摩利支天は陽炎(かげろう)を神格化した女神で、護身・勝利などを司り、日本では古来から武士の守護神として信仰されていました。南朝方の武将・楠木正成は兜の中に摩利支天の小像を篭めていたとも言われています。また毛利元就は摩利支天の旗を旗印として用いました。なお摩利支天は仏教の守護神である天部の一尊とされています。
宝蔵院流槍術は興福寺の僧・宝蔵院覚禅房法印胤栄が創始しました。宝蔵院流槍術は十文字槍を使った槍術です。宝蔵院流槍術は薙刀術も伝承していました。なお宝蔵院流槍術は現在ほとんどの形などが失伝し、宝蔵院流高田派の江戸に伝えられた系統のみが現存しています。
宝蔵院覚禅房法印胤栄は戦国時代(室町時代後期)の1521年(大永元年)に興福寺の衆徒・中御門胤永(なかみかどいんえい)の次男として生まれました。幼少の頃から刀槍を好み、新陰流(しんかげりゅう)の兵法家・柳生宗厳(やぎゅうむねよし)の薦めにより、兵法家で武将・上泉信綱(かみいずみのぶつな)の弟子になって新陰流剣術を学んだとも言われています。また大膳大夫盛忠(だいぜんだゆうもりただ)から槍術を学んだとも言われています。更に大西木春見から天真正伝香取神道流(てんしんしょうでんかとりしんとうりゅう)を学んで、長道具に優れた天真正伝香取神道流の影響により、十文字槍が生まれたとも言われています。胤栄には猿沢の池に映る三日月を突いて鎌槍の操法を発明したという伝承が残されています。その後に武事は仏門のなすべき業でないと修行を禁じたとも言われています。胤栄は宝蔵院の院主になり、晩年僧侶が殺生を教える矛盾を悟って槍術から離れ、武具を高弟・中村尚政(なかむらなおまさ・中村市右衛門(なかむらいちえもん))に与えたと言われています。なお胤栄は江戸時代初期の1607年(慶長12年)10月16日に亡くなりました。
宝蔵院は興福寺の塔頭(たっちゅう)でした。宝蔵院は幕末(江戸時代末期)まで現在の国立奈良博物館の敷地に建立されていたが、明治維新後の廃仏毀釈によって荒廃し、上知令によって敷地が国に没収されました。
三重塔は1143年(康治2年)に第75代・崇徳天皇の中宮・皇嘉門院(こうかもんいん・藤原聖子(ふじわらのせいし))が建立したが、その後平安時代末期の1180年(治承4年)に焼失し、間もなく鎌倉時代前期に再建されたと言われています。三重塔は北円堂とともに山内最古の建物とも言われています。
興福寺見どころ

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