当麻寺本堂・当麻寺見どころ

当麻寺本堂

●当麻寺本堂は1898年(明治31年)12月28日に国の重要文化財、1952年(昭和27年)3月29日に国宝に指定されました。
●当麻寺本堂は奈良時代に内陣である第一次前身堂(桁行7間・梁間4間の切妻造(きりつまづくり))が建立され、平安時代初期頃に第二次前身堂(桁行7間・梁間4間の寄棟造(よせむねづくり))に改造され、平安時代末期の1161年(永暦2年)に棟木の墨書から外陣(げじん)などが拡張されたと言われています。鎌倉時代初期に鎌倉幕府初代将軍・源頼朝(みなもとのよりとも)が長さ約9メートル・高さ約4.5メートルという国内最大級の須弥壇(しゅみだん)が寄進されたとも言われています。須弥壇には「源」の文字があります。鎌倉時代中期の1268年(文永5年)に屋根が修理されました。1957年(昭和32年)から1960年(昭和35年)に解体修理が行われました。
一般的に本堂は本尊仏を安置する仏堂です。本堂は金堂・根本中堂(中堂)・仏殿などとも言われています。飛鳥時代から平安時代前半に創建された寺院では金堂と言われ、禅宗では仏殿と言われるとこが多いそうです。
●当麻寺本堂は本尊・当麻曼荼羅(まんだら)を安置しています。当麻曼荼羅は奈良時代後期から平安時代前期に造られたとも言われる巨大な厨子(国宝)の中に収められています。ちなみに当麻寺本堂は曼荼羅堂とも言われています。なお当麻曼荼羅には中将姫(ちゅうじょうひめ)が一夜で織り上げたという伝説が残されています。
中将姫は奈良時代に右大臣・藤原豊成(ふじわらのとよなり)とその妻・紫の前の間に生まれたとされています。母・紫の前は5歳の時に亡くなり、6歳の時に照夜の前が継母になりました。中将姫は美しく、聡明で、幼少の頃から観音さまを深く信仰し、「称讃浄土経(しょうさんじょうどきょう)」一千巻の写経を成し遂げたと言われています。9歳の時に第46代・孝謙天皇に召し出され、百官の前で琴を演奏して賞賛を受けるが、継母に憎まれていじめれを受けるようになります。13歳の時に三位中将の内侍になりました。14歳の時に父・藤原豊成が諸国巡視の旅に出掛けると継母が家臣に殺害を命じたが、極楽往生を願って読経するのを憐れみ、雲雀山(ひばりやま)の青蓮寺(しょうれんじ)に隠しました。父・藤原豊成が改心して取り戻し、16歳の時に第47代・淳仁天皇から後宮へ入るように望まれるが、当麻寺に出家して当麻曼荼羅を蓮の糸を使って一夜で織り上げたと言われています。29歳の時に現れた生身の阿弥陀仏(阿弥陀如来)と二十五菩薩とともに極楽浄土に旅立ったと言われています。
●当麻寺本堂は桁行七間・梁間六間で、寄棟造(よせむねづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。
寄棟造は四方向に傾斜する屋根面を持つ屋根の形式です。寄棟造は大棟(おおむね)の両端から四方に隅棟(すみむね)が降り、2つの台形と2つの二等辺三角形で構成されます。いずれも奈良県の東大寺の大仏殿や正倉院(しょうそういん)・唐招提寺(とうしょうだいじ)の金堂が代表例です。
本瓦葺は平瓦と丸瓦を交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。
当麻寺見どころ

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