当麻寺金堂・当麻寺見どころ(修学旅行)

当麻寺金堂

●当麻寺金堂は1899年(明治32年)4月5日に国の重要文化財に指定されました。
●当麻寺金堂は平安時代末期の1180年(治承4年)の平重衡(たいらのしげひら)による南都焼き討ちにで焼失し、鎌倉時代前期の1268年(文永5年)以前に再建されたと言われています。1184年(寿永3年)に再建されたとも言われています。その後鎌倉時代後期の1326年(正中3年)に大規模な修理が行われました。当麻寺金堂はかつて奈良時代に建立され、北隣の講堂が南都焼き討ちで焼失した際に類焼したとも言われています。床下に焼土層はないが、本尊台座に火中した形跡が残されています。
一般的に金堂は本尊仏を安置する本堂(仏堂)のことです。金堂は本堂・根本中堂(中堂)・仏殿などとも言われています。飛鳥時代から平安時代前半に創建された寺院では金堂と言われ、禅宗では仏殿と言われるとこが多いそうです。
南都焼討は平安時代末期の1181年(治承4年)1月15日に平清盛(たいらのきよもり)の命により、五男で、総大将・平重衡(たいらのしげひら)らの平氏軍が反平氏勢力である東大寺・興福寺など奈良(南都)の寺院を焼討にした事件です。民家への放火によって東大寺・興福寺が全焼し、東大寺の大仏の首も焼け落ちました。なお平重衡は1184年(元暦元年)に摂津国・一ノ谷の戦い(いちのたにのたたかい)で敗れて捕らえられ、鎌倉に送られたが、奈良(南都)の寺院の要求により、1185年(文治元年)7月21日に木津川畔で斬首され、奈良坂にある般若寺(はんにゃじ)門前で梟首されました。平重衡は享年29歳でした。
●当麻寺金堂には7世紀末頃(飛鳥時代)に造仏され、日本最古の塑像(そぞう)と言われる本尊・塑造弥勒仏坐像(国宝)を安置されています。また周囲に本尊を守護する四天王も安置されています。四天王の内、持国天立像・増長天立像・広目天立像は奈良時代(白鳳時代)に造仏され、日本最古の乾漆像(かんしつぞう)と言われています。多聞天立像は鎌倉時代に造仏され木像です。
弥勒菩薩は菩提(悟り)を求める菩薩の一尊です。弥勒菩薩は兜率天(とそつてん)の内院に住み、現在仏である釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)の次に悟りの最高の位である仏陀(ぶつだ)になることが約束され、釈迦(しゃか)入滅から56億7,000万年(5億7,600万年)後の未来に仏陀となってこの世に下り、衆生を救済すると言われる菩薩です。天界での修行中を弥勒菩薩、未来仏は弥勒如来(弥勒仏)とも称します。弥勒菩薩は飛鳥時代に日本に伝わり、平安時代に弥勒浄土信仰(上生信仰・下生信仰)が盛んになり、日本古来の山岳信仰と仏教が融合した修験道(しゅげんどう)にも取り入れられました。
●当麻寺金堂は桁行五間・梁間四間で、入母屋造(いりもやづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。なお当麻寺金堂は元々厚板を葺いた木瓦葺でした。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
本瓦葺は平瓦と丸瓦を交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。
当麻寺見どころ

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