東大寺戒壇堂・東大寺見どころ(修学旅行)

東大寺戒壇堂

●東大寺戒壇堂は奈良県の重要文化財です。
●東大寺戒壇堂は江戸時代中期の1732年(享保17年)に再建されました。奈良時代の754年(天平勝宝6年)に唐(中国)からの帰化僧で、律宗(りっしゅう)の開祖・鑑真和上(がんじんわじょう)が第45代・聖武天皇、光明皇后など400名に大仏殿前に特設された戒壇で菩薩戒(ぼさつかい)を授け、翌755年(天平勝宝7年)に現在の場所に戒壇の土を移して日本初の正式な受戒の場として建立されました。その後3度火災で焼失し、1732年(享保17年)に再建されました。2020年(令和2年)7月から3年ほど掛けて保存修理・耐震工事が行われます。なお東大寺(中央戒壇)は福岡県太宰府市の観世音寺(かんぜおんじ・西戒壇)・栃木県下野市の下野薬師寺(しもつけやくしじ・東戒壇)とともに「天下の三戒壇」と言われ、僧侶になるには三戒壇で受戒する必要がありました。
鑑真和上は688年に唐(中国)・揚州(ようしゅう)江陽県(こうようけん)に生まれ、14歳で智満の元で出家し、18歳で道岸から菩薩戒を受け、20歳から長安で律宗(りっしゅう)・天台宗(てんだいしゅう)を学んで修行を積み、江南第一の大師と称されました。その後揚州・大明寺(だいめいじ)の住職であった742年(天宝元年)に遣唐使として唐に渡った栄叡(ようえい)・普照(ふしょう)から伝戒の師としての招請を受け、奈良時代中期の753年(天平勝宝5年)に6回目の挑戦の末に来日しました。ちなみに鑑真和上は5度の渡航失敗中に失明しました。来日後の5年間は東大寺(とうだいじ)で過ごし、大仏殿に戒壇(かいだん)を築き、聖武上皇(第45代・聖武天皇)から僧尼まで400名に菩薩戒(ぼさつかい)を授けました。その後759年(天平宝字3年)に第40代・天武天皇の皇子・新田部親王(にいたべしんのう)の旧邸宅跡が与えられて唐招提寺が創建されると唐招提寺に移り、763年(天平宝字7年)5月6日に76歳で亡くなりました。
戒壇は僧侶に生活の規律である戒律(かいりつ)を授ける場所です。戒律は自発的に規律を守ろうとする戒と他律的な規則を指す律を合わせた言葉です。戒壇は戒律を受けることで出家者が正式な僧尼として認められます。戒壇はお釈迦様の在世時代に祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)に設けられたと言われ、249年から255年頃に中国洛陽でも建立されたとも言われています。戒壇は清らかな場所で結界を設けて行ったが、その後土・石・磚(かわら)などを用いて三重の壇を築いて行いました。
●東大寺戒壇堂は横幅約12メートル・奥行約8メートルで、寄棟造(よせむねづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。東大寺戒壇堂は裳階(もこし)付きです。
寄棟造は四方向に傾斜する屋根面を持つ屋根の形式です。寄棟造は大棟(おおむね)の両端から四方に隅棟(すみむね)が降り、2つの台形と2つの二等辺三角形で構成されます。いずれも奈良県の東大寺の大仏殿や正倉院(しょうそういん)・唐招提寺(とうしょうだいじ)の金堂が代表例です。
本瓦葺は平瓦と丸瓦を交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。
裳階は仏堂などの本来の屋根の下に付けた差し掛けの屋根です。屋根が二重になるので2階建てと間違われたりします。いずれも奈良県の東大寺の大仏殿や法隆寺(ほうりゅうじ)金堂と五重塔・薬師寺(やくしじ)の東塔が代表例です。白鳳時代(はくほうじだい)に建立された法隆寺の金堂と五重塔が日本最古の例です。なお裳階は雨打 (ゆた) ・雪打 (ゆた) とも言われています。
東大寺見どころ

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