東大寺公慶堂・東大寺見どころ(修学旅行・観光)

東大寺公慶堂

●東大寺公慶堂は勧進所内に建立されています。公慶堂は鎌倉時代の俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)に次ぐ、第二の中興開山と言われる像高約69.7センチの公慶上人(こうけいしょうにん)坐像を安置しています。なお公慶堂では例年10月5日に勧進所八幡殿に安置され、国宝に指定されている僧形八幡神(そうぎょうはちまんしん)坐像の一般公開に合わせ、公慶上人坐像も公開されます。
公慶上人坐像は江戸時代中期の1706年(宝永3年)5月に公慶上人の遺弟・公盛が公慶上人の偉業を伝えるため造仏し、龍松院(りゅうしょういん)勧進所の御影堂に安置したと言われています。公慶上人坐像は朱衣(しゅい)および袈裟(けさ)を着け、胸前で手を組んで畳座に坐し、礼拝する姿が造仏されています。公慶上人坐像は大阪仏師の椿井民部(つばいみんぶ)法橋(ほうきょう)・性慶と公慶の弟子・即念の共同で制作されました。
公慶上人は1648年(慶安元年)12月29日に鷹山頼茂の子として丹後国宮津(京都府北部宮津市)で生まれました。1660年(万治3年)に東大寺大喜院に入寺し、英慶に師事して三論を学び、式部卿公慶と称しました。戦国時代の1567年(永禄10年)の三好・松永の戦いの兵火で大仏殿が焼失し、100年以上も雨ざらしとなっている露座の大仏を嘆き、大仏殿再建を決意しました。1684年(貞享元年)5月に江戸幕府に大仏修理の許可を願い出で、6月に許可されました。「一紙半銭」を標語に全国に勧進を進め、7年後に1万1千両に達しました。1685年(貞享2年)に大仏修理に着手し、1692年(元禄5年)に大仏の修理が完成して開眼法要を行いました。その後大仏殿の再建に着手し、翌1693年(元禄6年)に江戸に勧進所を設置しました。1694年(元禄7年)に護持院(ごじいん)の隆光(りゅうこう)の仲立ちにより、援助された江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉(とくがわつなよし)に拝謁しました。1705年(宝永2年)に大仏殿の上棟式を行い、江戸幕府に感謝の意を表す拝礼の儀を済ませたが、その直後の1705年(宝永2年)8月30日江戸で客死しました。遺骸は奈良に運ばれ、俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)が建立した五劫院(ごこういん)に埋葬されました。
●東大寺公慶堂は入母屋造(いりもやづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。公慶堂は正面に向拝(こうはい)付きです。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
本瓦葺(ほんがわらぶき)です。東大寺戒壇堂は裳階(もこし)付きです。
本瓦葺は平瓦と丸瓦を交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。
東大寺見どころ

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