東大寺鐘楼梵鐘・東大寺見どころ(修学旅行・観光)

●東大寺鐘楼は1897年(昭和30年)12月28日に国の重要文化財、1951年(昭和26年)6月9日に国宝に指定されました。梵鐘は国宝に指定されています。
●東大寺鐘楼は鎌倉時代初期の承元年間(1207年~1211年)に臨済宗(りんざいしゅう)の開祖で、大勧進職(だいかんじんしょく)・明菴栄西(みょうあんえいさい)が再建しました。鐘楼は方一間の四方吹放(ふきはなし)です。鐘楼は鎌倉時代に中国・宋の建築様式を取り入れて成立した大仏様(だいぶつよう)を基調としています。なお鐘楼は俊乗堂と念仏堂にはさまれた鐘楼ヶ丘に建立されています。
明菴栄西は平安時代後期の1141年(永治元年)に岡山県岡山市北区の備津神社(きびつじんじゃ)の権禰宜(ごんねぎ)・賀陽貞遠の子として生まれ、1154年(久寿元年)に14歳で比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)で出家得度し、天台宗(てんだいしゅう)の教学と密教を学びました。1168年(仁安3年)に天台宗を立て直す為に中国・南宋に留学し、その後日本に戻り、鎌倉時代初期の1187年(文治3年)に再度中国・南宋に渡り、1191年(建久2年)に虚庵懐敞(こあんえじょう)から臨済宗黄龍派(おうりゅうは)の嗣法の印可を受け、号「明菴」を授かりました。1206年(建永元年)に俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)の後を受けて東大寺勧進職に就任しました。
大仏様は鎌倉時代初期に俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)が大仏殿を再建する際に中国・宋(南宋)から取り入れた建築様式です。大仏様は南宋系の建築様式で、禅宗様(ぜんしゅうよう)は北宋系の建築様式です。大仏様は柱に肘木をさし込む指肘木(さしひじき)、天井を張らない化粧屋根(けしょうやね)、用木に彩色を施すのが特徴です。なお大仏様はかつて天竺様(てんじゅくよう)とも言われていました。
●東大寺鐘楼は大仏(盧舎那仏像)の開眼供養会が行われた752年(天平勝宝4年)に鋳造された梵鐘(国宝)を吊っています。東大寺梵鐘は高さ約3.85メートル・口径約2.71メートル・重さ約26.3トンで、中世以前の梵鐘としては最大とも言われています。梵鐘は奈良時代に地震で2度鐘楼から落下したと言われています。なお撞木はケヤキ造りで、長さ約4.48メートル・直径約30センチ・重さ約180キロで、金具を入れると約20キロもあります。
東大寺梵鐘は東大寺鐘(とうだいじのかね)として、春日野鹿(かすがののしか)・南円堂藤(なんえんどうのふじ)・猿沢池月(さるさわいけのつき)・佐保川蛍(さほがわのほたる)・雲居坂雨(くもいざかのあめ)・轟橋旅人(とどろきばしのたびびと)・三笠山雪(みかさやまのゆき)とともに南都八景(なんとはっけい)に数えられました。南都八景は東大寺・興福寺周辺の優れた風景です。南都八景は室町時代に京都・相国寺(しょうこくじ)の塔頭・鹿苑院(ろくおんいん)の僧・蔭涼軒主(いんりょうけんしゅ)が記した「蔭涼軒日録(いんりょうけんにちろく)」に初めて登場します。1456年(寛正6年)9月26日に室町幕府第8代将軍・足利義政(あしかがよしまさ)に付き添って春日大社に参詣した際に記されました。
東大寺梵鐘は擬人化して、奈良次郎(ならじろう)とも言われています。奈良次郎は梵鐘の大きさのランキングで、「海に太郎、奈良次郎、吉野三郎、高野四郎」と言われています。「海に太郎」は中国・唐から日本へ運ぶ途中に海に沈んだという梵鐘、「吉野三郎」は奈良県吉野町にあった世尊寺(せそんじ)の梵鐘、「高野四郎」は高野山金剛峯寺壇上伽藍の鐘楼堂の梵鐘です。
東大寺見どころ

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