東大寺俊乗堂・東大寺見どころ(修学旅行・観光)

●東大寺俊乗堂は江戸時代中期の元禄年間(1688年~1703年)に公慶上人(こうけいしょうにん)が伽藍の再建に尽力した中興の祖・俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)の遺徳を称える為に建立しました。
俊乗房重源は平安時代後期の1121年(保安2年)に紀季重(きすえしげ)の子・刑部左衛門尉重定(ぎょうぶさえもんのじょうしげさだ)として京都で生まれ、13歳で真言宗(しんごんしゅう)醍醐派総本山・醍醐寺(だいごじ)で密教を学び、その後浄土宗(じょうどしゅう)の開祖・法然上人(ほうねんしょうにん)に浄土教を学び、大峯(おおみね)・熊野・御嶽(おんたけ)・葛城(かつらぎ)などで修行(遊行)しました。1167年(仁安2年)~1176年(安元2年)に3回中国・宋(南宋)に留学したとも言われ、「入唐三度聖人」と称しました。入宋中に浄土教の知識を得たり、阿育王山(あいくおうざん)の舎利殿(しゃりでん)を建立する建築法を体得したりしたと言われています。ちなみに俊乗房重源が大仏殿を再建する際に宋(南宋)から取り入れた建築様式は大仏様(だいぶつよう)と言われています。1180年(治承4年)に平清盛(たいらのきよもり)の五男・平重衡(たいらのしげひら)による南都焼討(なんとやきうち)によって東大寺の伽藍や大仏(盧舎那仏像)が焼失し、俊乗房重源は1181年(養和元年)に被害状況を視察に来た後白河法皇(第77代・後白河天皇)の使者・藤原行隆(ふじわらのゆきたか)に東大寺の再建を進言し、藤原行隆の推挙により、61歳で東大寺大勧進職(だいかんじんしょく)に就きました。俊乗房重源は後白河法皇や太政大臣・九条兼実(くじょうかねざね)、そして鎌倉幕府初代将軍・源頼朝(みなもとよりとも)などに浄財の寄付を依頼し、1185年(文治元年)に大仏の開眼供養が行われ、1195年(建久6年)に大仏殿が再建され、1203年(建仁3年)に総供養が行われ、10数年の歳月を掛けて東大寺を再興しました。なお俊乗房重源は東大寺再興の功によって号・大和尚を賜り、1206年(健永元年)に86歳で亡くなりました。
公慶上人は江戸時代前期の1648年(慶安元年)に生まれ、東大寺の英慶に三論を学びました。公慶上人は1567年(永禄10年)の松永・三好の合戦による大仏殿の焼失と雨ざらしの大仏(盧舎那仏像)を嘆き、大仏殿再建を決意しました。江戸時代中期の1684年(貞享元年)に江戸幕府の許可を得て全国で勧進を進め、江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉(とくがわつなよし)の援助もあり、1692年(元禄5年)に大仏の修理が完成して開眼法要を行いました。1693年(元禄6年)に徳川綱吉に拝謁し、その後も勧進を継続したが、大仏殿の落慶を見ることはなく、1705年(宝永2年)に江戸で亡くなり、遺骸は東大寺に運ばれ、俊乗房重源が建立したた五劫院(ごこういん)に埋葬されました。なお大仏殿は1709年(宝永6年)に落慶しました。
●東大寺俊乗堂は重源上人坐像(国宝)・快慶作の阿弥陀如来立像などを安置しています。
重源上人坐像は鎌倉時代に造仏され、リアリズムの傑作として知られています。重源上人坐像は運慶(うんけい)作とも言われています。
運慶は1150年(久安6年)頃に奈良市・興福寺(こうふくじ)を拠点に活動していた奈良仏師で、慶派の頭領・康慶(こうけい)の長男として生まれ、興福寺・東大寺などの仏像を修理し、南都焼討(なんとやきうち)後に興福寺・東大寺の復興事業に加わり、数多くの仏像を造仏しました。運慶は天平彫刻の影響を受け、写実的な力強い作風で、鎌倉彫刻の第一人者とされています。
東大寺見どころ

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