唐招提寺戒壇・唐招提寺見どころ(修学旅行)

唐招提寺戒壇

●唐招提寺戒壇は金堂(国宝)の西側にあります。戒壇は鎌倉時代に築かれた3段の石段のみが残されています。戒壇は奈良時代中期の759年(天平宝字3年)に唐(中国)からの渡来僧で、律宗(りっしゅう)の開祖・鑑真和上(がんじんわじょう)が第40代・天武天皇の第7皇子・新田部親王(にいたべしんのう)の宅跡を下賜され、唐招提寺が創建された際に築かれたとも言われています。また鎌倉時代後期の1284年(弘安7年)に創建されたとも言われています。中世に廃され、その後再興されたが、江戸時代末期の1848年(嘉永元年)に放火によって建物が焼失し、その後建物は再建されていません。1978年(昭和53年)にインド・サンチーの古塔を模した宝塔が建立されました。
戒壇は仏教僧に戒律(戒)を授ける場所です。戒壇は戒を授ける為に壇を築くから戒壇と言われています。戒壇はお釈迦様の在世時代にインドの祇園精舎に築かれたのが起源と言われ、249年から255年頃に中国でも洛陽に初めて築かれました。日本では鑑真和上来日後の754年(天平勝宝6年)に東大寺大仏殿前に戒壇が初めて築かれ、その後唐招提寺にも築かれました。なお戒壇は結界が常に整った場所で、出家者が授戒すると正式な僧尼に認められます。
サーンチーはインド中部にあるマディヤ・プラデーシュ州のラーイセーン県にあります。インドでは紀元前3世紀にアショーカ王が8万4千ものお釈迦様の遺骨(仏舎利)を安置する卒塔婆(ストゥーパ)が建立されました。サーンチーには8つが建てられ、現在も3つ(第1塔・第2塔・第3塔)が残され、第1塔がサーンチーの塔と言われています。
鑑真和上は奈良時代の688年に唐(中国)・揚州(ようしゅう)江陽県(こうようけん)に生まれ、14歳で智満(ちまん)の元で出家し、18歳で道岸(どうがん)から菩薩戒(ぼさつかい)を受け、20歳から古都・長安(ちょうあん)で律宗(りっしゅう)・天台宗(てんだいしゅう)を学んで修行を積み、江南第一の大師と称されました。その後揚州・大明寺(だいめいじ)の住職であった742年(天宝元年)に遣唐使(けんとうし)として唐に渡った栄叡(ようえい)・普照(ふしょう)から伝戒(でんかい)の師としての招請を受け、奈良時代中期の753年(天平勝宝5年)に6回目の挑戦の末に来日しました。ちなみに鑑真和上は5度の渡航失敗中に失明しました。来日後の5年間は東大寺(とうだいじ)で過ごし、大仏殿に戒壇(かいだん)を築き、聖武上皇(第45代・聖武天皇)から僧尼まで400名に菩薩戒を授けました。その後759年(天平宝字3年)に第40代・天武天皇の皇子・新田部親王(にいたべしんのう)の旧邸宅跡が与えられて唐招提寺が創建されると唐招提寺に移りました。なお鑑真和上は奈良時代後期の763年(天平宝字7年)5月6日に76歳で亡くなりました。
金堂は奈良時代(8世紀後半)に中国・唐からの渡来僧で、律宗の開祖・鑑真和上の弟子で、渡来僧・如宝(にょほう)が建立しました。金堂は奈良時代に当初から金堂として建立された唯一金堂とも言われています。なお2000年(平成12年)から開始された平成の大修理に伴う調査により、金堂には奈良時代後期の781年(天応元年)に伐採されたヒノキが使われていたことが分かりました。
唐招提寺見どころ

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