薬師寺大講堂・薬師寺見どころ(修学旅行・観光)

薬師寺大講堂

●薬師寺大講堂は2003年(平成15年)に再建されました。薬師寺大講堂はかつて698年(文武天皇2年)に建立され、高さ約9メートル・幅6.5メートルの阿弥陀三尊繍仏(しゅうぶつ)の開眼供養が行われたと言われています。阿弥陀三尊繍仏は第41代・持統天皇が第40代・天武天皇の7回忌にあたり、極楽浄土の様相を現して刺繍で作らせました。戦国時代(室町時代後期)の1528年(享禄元年)の享禄の兵火で阿弥陀三尊繍仏とともに焼失しました。江戸時代後期の1852年(嘉永5年)に再建されたが、当初の大講堂に比べると小さなものでした。なお薬師寺大講堂には本尊・銅造弥勒三尊像(重要文化財)が安置されています。薬師寺大講堂は法相唯識の道場として、最勝会・慈恩会などの論義法会が行われています。
第41代・持統天皇は飛鳥時代の645年(大化元年)に第38代・天智天皇(中大兄皇子(なかのおおえのおうじ))と遠智娘(おちのいらつめ)の第2皇女として生まれました。657年(斉明3年)13歳でいずれも姉妹である大田皇女(おおたのひめみこ)・大江皇女(おおえのひめみこ)・新田部皇女(にいたべのひめみこ)とともに叔父・大海人皇子(第40代・天武天皇)に嫁ぎ、662年(天智元年)に大海人皇子(第40代・天武天皇)の第2皇子・草壁皇子(くさかべのみこ)を産みました。671年(天智天皇10年)に夫・大海人皇子(第40代・天武天皇)が政争を避けて吉野に隠棲すると草壁皇子とともに従いました。672年(天武天皇元年)の壬申の乱(じんしんのらん)で夫・大海人皇子(第40代・天武天皇)が挙兵して勝利し、673年(天武天皇2年)に皇后に立てられました。日本最古の正史「日本書紀(にほんしょき)・720年(養老4年)完成」によると夫・天武天皇を助けて政事に助言したとも言われています。681年(天武天皇10年)に子・草壁皇子が皇太子になったが、685年(天武天皇14年)頃から夫・天武天皇が病気がちになり、子・草壁皇子とともに共同で政務を執りました。686年(朱鳥元年)9月に夫・天武天皇が崩御し、天武天皇が寵愛した第3皇子・大津皇子が謀反で自害すると第41代・持統天皇に即位したと言われています。 689年(持統天皇3年)に子・草壁皇子が亡くなり、697年(文武天皇元年)2月に孫で、草壁皇子の長男・軽皇子(第42代・文武天皇)が皇太子になり、同年8月に孫・軽皇子(第42代・文武天皇)に譲位して上皇になり、第42代・文武天皇とともに政務を執りました。なお第41代・持統天皇は703年(大宝2年)1月13日に崩御しました。
一般的に講堂は僧侶が経典の講義や説教などをする堂塔です。講堂は通常、中国・唐時代の伽藍配置に倣って、金堂(本堂)の背後に建立されています。ちなみに講堂は禅宗寺院では法堂(はっとう)とも言われています。講堂は奈良時代に建立が始まり、鎌倉時代以後にはほとんど建立されなくなったが、禅宗寺院で仏殿の背後に法堂として建立されました。講堂は奈良時代に建立された唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂や平安時代に再建された法隆寺(ほうりゅうじ)の大講堂がよく知られています。講堂で講義する際には本尊を安置し、講師が本尊に向かい、礼盤(らいばん)に座って講義を行いました。なお講堂は多くの僧侶が参集することから金堂よりも大きく建立されるが、装飾性は少い堂塔です。
●薬師寺大講堂は桁裄九間・梁間四間で、入母屋造(いりもやづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。薬師寺大講堂は裳階付きです。薬師寺大講堂は正面約41メートル・奥行約20メートル・高さ約17メートルで、当初と同じ規模です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
薬師寺見どころ

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