薬師寺食堂・薬師寺見どころ(修学旅行・観光)

薬師寺食堂

●薬師寺食堂は2017年(平成29年)に再建されました。薬師寺食堂はかつて奈良時代前期の730年(天平2年)頃に建立されました。発掘調査によると約300人の僧侶が一堂に会して斎食(さいじき)ができる規模で、「薬師寺縁起」によると東大寺(とうだいじ)・大安寺(だいあんじ)に次ぐ規模だったとも言われています。平安時代中期の973年(天禄4年)に焼失し、1005年(寛弘2年)に再建されたが、その後再び失われました。なお薬師寺食堂には文化功労者である日本画家・田渕俊夫(たぶちとしお)が描いた本尊「阿弥陀三尊浄土図」を中心に全長50メートル・14面の壁画「仏教伝来の道と薬師寺」が祀られています。ちなみに14面は「旅立ち」・「遣唐使船」・「大和へ」・「瀬戸内」・「帰帆」・「御津の浜松」・「大和川」・「飛鳥川」・「うねび」・「みみなし」・「天のかぐやま」・「飛鳥寺院幻想」・「藤原京」・「平城京」です。また天井の雲の模様は文化功労者である建築家・伊藤豊雄(いとうとよお)のデザインによるものです。
一般的に食堂は寺院で僧侶が斎食(さいじき)する為の堂塔です。食堂は古くは身分の低い僧侶が食事をする場所で、平安時代まで寺院の主要な堂塔の一つでした。食堂は多くの僧侶が食事をすることから講堂とほぼ同じ規模があったと言われています。食堂には文殊菩薩(もんじゅぼさつ)・賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)が安置されることが多かったそうです。禅宗寺院では斎堂(さいどう)・僧堂(そうどう)、それ以外では庫裡(くり)に移行しました。法隆寺(ほうりゅうじ)に奈良時代の遺構があり、東大寺(とうだいじ)興福寺(こうふくじ)に遺跡が残されています。
田渕俊夫は1941年(昭和16年)8月に東京に生まれました。1961年(昭和36年)に東京芸術大学・美術学部絵画科日本画専攻に入学し、1965年(昭和40年)に同校を卒業して同校大学院に進学し、1967年(昭和42年)に大学院を修了しました。1970年(昭和45年)8月に平山郁夫(ひらやまいくお)を師事しました。同年12月に愛知県立芸術大学・美術学部絵画専攻日本画の助手になり、1974年(昭和49年)に同校の講師になり、1984年(昭和59年)に同校の助教授になりました。1985年(昭和60年)に東京芸術大学・美術学部の保存修復技術助教授になり、1995年(平成7年)に同校大学院美術研究科の教授になり、2005年(平成17年)に東京芸術大学・副学長に就任しました。また2016年(平成28年)には日本美術院の理事長にもなりました。なお田渕俊夫は1968年(昭和43年)に日本美術院展覧会(院展)で初入選し、1994年(平成6年)に「大地I・II」で院展内閣総理大臣賞を受賞しました。
●薬師寺食堂は南北約16メートル・東西約41メートル・高さ約14メートルで、入母屋造(いりもやづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
薬師寺見どころ

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