伝香寺本堂・伝香寺見どころ(修学旅行・観光)

伝香寺本堂

●伝香寺本堂は1906年(明治39年)4月14日に国の重要文化財に指定されました。
●伝香寺本堂は安土桃山時代の1585年(天正13年)に建立されました。伝香寺は奈良時代の天平宝亀年間(770年~780年)に唐(中国)の渡来僧・鑑真和上(がんじんわじょう)の高弟・思詫律師(したくりっし)が母国を偲んで唐風の庵を結んで、実円寺(じつえんじ)と称したのが起源です。その後1585年(天正13年)に戦国大名・筒井順慶(つついじゅんけい)の母・芳秀宗英尼(ほうしゅうそうえいに)が第106代・正親町天皇(おおぎまちてんのう)の勅許により、子・順慶の菩提を弔う為に唐招提寺(とうしょうだいじ)の泉奘(せんじょう)長老を開山に菩提所(香華院)として再興し、本堂が建立されました。芳秀宗英尼は本堂前に椿も植え、桜のように潔く散ることから順慶因んで、武士椿(もののふつばき)とも言われたそうです。なお本堂は本尊・釈迦如来(しゃかにょらい)坐像を安置しています。
筒井順慶は戦国時代(室町時代後期)の1549年(天文18年)3月31日に大和国の戦国大名・筒井順昭(つついじゅんしょう)と山田道安(やまだどうあん)の娘・大方殿(おおかたどの)の子として生まれました。1550年(天文19年)の2歳の時に父・筒井順昭が病死して家督を継ぎ、一族の福住宗職(ふくずみむねもと)が政務を代行しました。1559年(永禄2年)に畿内を中心とした三好政権(みよしせいけん)の松永久秀(まつながひさひで)が侵攻して大和(奈良)の大半を制圧した為、筒井城を捨てて東山内(ひがしさんない)などに逃れました。三好政権が分裂すると三好三人衆(みよしさんにんしゅう)と結んで松永久秀と対抗して筒井城を奪還したが、三好三人衆と織田信長が対立し、松永久秀が織田信長に臣従して形勢が逆転しました。その後松永久秀と織田信長が対立すると織田信長に臣従し、1576年(天正4年)に大和一国を預けられました。翌1577年(天正5年)に松永久秀を信貴山城(しぎさんじょう)で討ち、1578年(天正6年)に大和国を平定し、1580年(天正8年)に郡山城(こおりやまじょう)を築城し、織田政権の大名の地位を確立ました。1582年(天正10年)の本能寺の変で明智光秀(あけちみつひで)から誘われたが、大和国を動かず、明智光秀と豊臣秀吉(とよとみひでよし)が戦った山崎の合戦後に豊臣秀吉に参じました。なお筒井順慶は1584年(天正12年)9月15日に亡くなりました。
●伝香寺本堂は桁行三間・梁間三間で、寄棟造(よせむねづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。
寄棟造は四方向に傾斜する屋根面を持つ屋根の形式です。寄棟造は大棟(おおむね)の両端から四方に隅棟(すみむね)が降り、2つの台形と2つの二等辺三角形で構成されます。いずれも奈良県の東大寺の大仏殿や正倉院(しょうそういん)・唐招提寺(とうしょうだいじ)の金堂が代表例です。
本瓦葺は平瓦と丸瓦を交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。
伝香寺

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